厄神様の祠(横浜市金沢区六浦南)

2022.12.21[ 神社 ]

厄神様の祠(横浜市金沢区六浦南)

戦国時代の武士の霊を弔うために造られた小祠 厄神様の祠(横浜市金沢区六浦南)

戦国時代の敗残武士の霊が村を守ったという言い伝えのある小祠「厄神様の祠(横浜市金沢区六浦南)」。

安房里見氏は戦国時代に度々武蔵国・相模国の沿岸部に積極的に攻勢を仕掛けていました。この戦いの中、里見氏配下の武士がこの地に取り残され斃れました。成仏できずにいたその武士の霊が村民の前に現れ、自分の霊を祀ってくれればこの村から疫病を全て追い払うと告げ、村民は霊を祀る祠を作り、遺骨を埋葬したと云います。その後村から疫病がなくなり、平和になったと伝わっています。

祠の脇にある、三艘町内会による『厄神様の由来』には以下のように記されています。

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厄神様の由来

今より三百九十六年前(戦国時代)安房両総の豪族里見義弘は、北条氏の領有たる相模をせめんとし、永禄三年六月兵船八十余艘をひきいて北条氏部将梶原景宗、北見時忠らの水軍と三浦海上で戦って大いに勝ち、上総左貫城に入り対岸なる三浦四十余郷を略取した。尚も義弘に部将正木時忠弟の忠弘と共に兵六千騎を率いて、上杉謙信と合同して小田原城を攻めた。北条氏康は、伊豆・相模・北武蔵の兵二万余を率いて防戦したが、義弘らの軍が勝ち、義弘はこれを誇り、宴遊にふけり守備を怠った。北条氏はこれを知り不意に襲撃し義弘は防戦したが敗れ上総に逃れ去った。義弘の部下諸将は北条氏に降り、又離反した(農民土民)となった(日本歴史事典に依る)。逃れた一人の武士が当神社付近で人馬共に斃れて霊魂が宙に迷っていました。其の当時六浦村には悪い病気(今で言う伝染病)で多くの人々が死亡されました。その時神社の付近に武士の霊魂の火柱が立ち其の武士を祀ってくれれば三艘村の悪い病気ははらってくれると言うお伝えでした。(伝説による)当時の村の人々が此処に横穴を掘り祠を作って其の武士の遺骨を祀ったのであります。其の後は悪い病気も出ず平和な村となりました。それ故に厄の神様として(俗に村人は厄神様とし)毎年四月一日村中の人が盛大にお祭りを行ったのであります。その後大東亜戦争で昭和十八年以降昭和四十五年迄中絶しましたが(但し念仏講の人々は毎年四月一日に行事を行ってくれました)昭和四十六年より九月の浅間神社の祭りと一緒に行事を行う事に町内の役員会で決定しました。尚今年九月の祭りの大掃除の時に当時を偲ぶ遺骨が発見され十月三日再埋葬され五輪の塔の下に埋葬されてあります。其の隣にある石の珠は馬が死んだ時に祀った石です。場所は六浦村千九十番地・鈴木文吉宅の山裾ですが今は現状の様に山を崩し昔の面影はありませんのでこの場所に移しました。

昭和四十六年九月吉日
三艘町内会

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こういう伝承は、いつまでも語り継がれてほしいですね。

最寄駅は、京浜急行逗子線「六浦」駅。徒歩約7・8分ほどでしょうか。。

厄神様の祠(横浜市金沢区六浦南)写真

かなり急な角度の崖の脇にお祀りされています(左手前)。

厄神様の祠(横浜市金沢区六浦南)写真

全景。

厄神様の祠(横浜市金沢区六浦南)写真

こちらが祠。

厄神様の祠(横浜市金沢区六浦南)写真

案内板。

厄神様の祠(横浜市金沢区六浦南)写真

とても綺麗に、大切に管理されていることがわかります。

MAP

神奈川県横浜市金沢区六浦南1丁目32−5

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