お三の宮日枝神社

2018.12.14[ 神社 ]

お三の宮日枝神社

江戸時代に造成された「吉田新田」の鎮守神として勧請された山王社 お三の宮日枝神社

江戸時代に造成された「吉田新田」の鎮守神として勧請された「お三の宮日枝神社」。

正式名称は「日枝神社」ですが、その前につく「お三の宮」には2つのお話が伝わっています。

ひとつは、「山王宮(さんのうみや)→山の宮(さんのみや)→おさんの宮」と転訛した、というもの。もうひとつは、「お三の人柱伝説」を付会して「お三の宮」と書かれるようになった、というもの。

「お三の人柱伝説」については、以下のような話があるそうです。
『吉田新田埋立の最初の工事(明暦2年)は、大雨による川の氾濫により失敗しました。そこで勘兵衛(※吉田勘兵衛良信・吉田新田を造った商人)は、再度の埋立工事の成功を成就するために身延山に参ったところ、訳あって夫の仇を討ちたいと諸国を流浪していた「お三」という女性にめぐり合いました。勘兵衛は、私の家に暫く身を寄せて時期を待つよう促し、家族の一員として迎えるに至りました。こうした機縁で、お三は勘兵衛家に仕える事になりました。再度の埋立工事が決まった万治二年のある日、お三は勘兵衛に向かい、「今度の事業は容易ではないと思います。人物を深く帰依なさる旦那様には、必ずやご加護があることと信じますが、古来人柱をたてるとその験があると聞き及んでいます。」と日頃の恩に報いるのはこの時と、自ら人柱になりたいと申し出ました。勘兵衛はお三の殊勝な心がけを喜び感謝しながらも、人命の尊さを説いて押し止めたがお三は聞き入れなかったといいます。同年九月十三日、波打ち際(現神社裏)より白衣に身をつつんだお三は、合掌して天を仰ぎ大海に身を投じ、埋立の大事業完遂の人柱となったとのことです。このように難航を続けた工事も、お三の人柱によって成し遂げることが出来たのであります。』(神社頒布の栞より)

新田ができた後、1673年に、大岡川と中村川の分岐点である現在地に、江戸の山王社(現在の赤坂日枝神社)より勧請し、新田の鎮守として(稲荷社とともに)祀ったのが起源と伝わっています。

御祭神は、大山咋命。相殿に、宇迦之御魂命。

最寄駅は、横浜市営地下鉄ブルーライン「吉野町」駅。徒歩3分ほど。また、京浜急行本線「南太田」駅からは、徒歩5分ほど。

現在は「横濱開港神社巡り」のひとつになっています。

お三の宮日枝神社写真

境内の御由緒板。

お三の宮日枝神社写真

獅子山。

お三の宮日枝神社写真

獅子山。

お三の宮日枝神社写真

招魂社。明治期〜第二次大戦までのことを考えれば、これも重要な神社の役割と言えるのではないでしょうか。

お三の宮日枝神社写真

「苦難除けの石燈籠」。東日本大震災の時間、神社に併設されている幼稚園は子供の「お迎えの時間」。この燈籠は倒壊したのですが、偶然にも車と車の間に落下し、怪我人はでなかったそうです。そういった経緯から「苦難除けの石燈籠」と呼ばれるようになったと、案内板に書かれています。

お三の宮日枝神社写真

お三の宮日枝神社写真

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