富士塚城址(横浜市泉区下飯田町)

2023.08.10[ 史跡・公園等 ]

渋谷重国の子・飯田家義の居城跡 富士塚城址(横浜市泉区下飯田町)

飯田家義の居城跡と伝わる「富士塚城址(横浜市泉区下飯田町)」。

渋谷重国の子・飯田家義は、石橋山合戦時に窮地の源頼朝を救い、また後の富士川の戦いでも戦功を挙げ、飯田郷を安堵されたと伝わっています。その居館跡と伝わっているのがこちら。現在は周囲は造成され住宅街になっており、往時の面影を感じることはできませんが、そもそもこの辺りは「本郷」と呼ばれていたことから、ここが飯田郷の中心地であったものと思われます。

公園内にある『富士塚城址』と書かれた石碑の裏面『史蹟 富士塚由来』には、以下のように記されています。

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ここは源頼朝延命の恩人飯田五郎家義の館跡の地である 治承四年(西暦一一八〇年)四月頼朝関東に挙兵 僅か三百余騎で石橋山に陣を構えたが 一夜大庭景親 伊東祐親の軍三千三百余騎の夜襲を受け惨敗した 家義は景親に追われすでに危く見えた頼朝を救い 夜陰風雨の中 箱根山に導き 厳しい敵の目をくゞり奇蹟の安房脱出に成功させた
さらに同年十月頼朝の黄瀬川出陣に従い 平維盛数万と対戦した時 一子太郎は射殺されたが奮戦して怯まず 敵伊藤小次郎を追いその首級を頼朝に献じた
「前にはわが命を救い 今また戦功をなす 本朝無双の勇士なり」と賞されこの地を与えられた 家義は鎌倉に近い相模野の要地に館を定め一族の墳墓とした
爾来この地を飯田と稱し さらに中田 和泉を含めてその一字づつをとる中和田は現在小 中学校
の校名として残っている

昭和三十九年五月吉日
山田光記
横浜生活協同組合建之

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最寄駅は、横浜市営地下鉄ブルーライン「下飯田」駅。徒歩約5・6分ほど。

富士塚城址(横浜市泉区下飯田町)写真

外観。一帯は「富士塚公園」になっています。

富士塚城址(横浜市泉区下飯田町)写真

『富士塚城址』碑。

富士塚城址(横浜市泉区下飯田町)写真

石碑前からの公園内の眺め。

MAP

神奈川県横浜市泉区下飯田町

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