大泉寺(町田市下小山田町)
2024.03.07[ 史跡・公園等 ]
小山田有重の居館跡に創建された「大泉寺(町田市下小山田町)」。曹洞宗のお寺で、正式には(?)補陀山水月院大泉寺。
小山田有重は平安時代末期の武将で、坂東平氏・秩父重弘の子。小山田一帯を所領し、小山田氏の祖となった人物です。現在大泉寺のある場所が小山田有重の居館跡で、本堂の裏山(補陀山)はかつて小山田城だったと伝わっています。
お寺の方は、小山田有重の子・行重が、鎌倉時代に父の菩提を弔うために創建した「高昌寺」が前身。その後室町時代中期に無極慧徹が高昌寺を現在地に移し、曹洞宗の寺院「大泉寺」と開山しました。現在は武相卯歳観音霊場 札所第十一番となっています。
最寄駅は、小田急多摩線「唐木田」駅。徒歩だと、約40分ほどでしょうか。。
山門。
仁王門。
境内の様子。
本堂。その奥の裏山は小山田城跡。
鐘楼。自動で鐘をつくのだそう!そんな時代になったんですね。。
『小山田高家公顕彰碑』。以下のように記されています。
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福武平氏の流れを汲む小山田別当有重 承安元年(一一七一年)この地に城を築いて小山田の庄を領した 源平争乱の時代に小山田一族は原瀬朝の家人として活躍し平氏滅亡のあと建久元年(一ー九〇年)朝親初の京都入洛に際して有重の子三郎重成四郎重朝五郎行重は畠山重忠らとともに先陣の随兵として従った 頼朋亡きあと北條時政の誹りを受け元久二年(一二〇五年)三郎重成四郎重朝とその子等将軍実朝により二俣川に於て謀殺された ここに小山田一族は離散した
元弘三年(一三三三)小山田一族の裔小山田太郎高家が新田義貞の侍大将として登場 小山田城を固守していた北條泰家の軍を追って鎌倉に攻め入り北條一族を討滅した ここに建武中興成る その後足利尊氏が叛くに及んで高家は湊川の合戦に奮戦の折、主君義貞生田の森で足利軍の矢ぶすまに立ちつくすを見て高家おのれの馬に乗せ奉りて主君の危急を救い自らは処女塚で壮烈な戦死を遂げる 時に延元元年(一三三六)五月二十五日と太平記は記している
小山田城址と伝えられる大泉寺境内の西北の山腹に三基の塔があるが有重行重高家三人の供養塔といわれている 梵字の彫刻も苔むして定かではない 塔のたたずまいは小山田の風土と永い歴史をわれわれに語りかけてやまない 然し今日開発の波は怒涛の如く 由緒あるこの城址に逼りつつある時ここに美しい風土に秘められた歴史の跡を偲び、併せて小山田高家公及び小山田一族の名声を末永く顕彰するためこの碑を建立する
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小山田城址碑。
MAP
東京都町田市下小山田町332