一本檜稲荷神社(中野区中野)
2024.12.15[ 神社 ]
御犬のお囲場の跡地に建つお稲荷さま「一本檜稲荷神社(中野区中野)」。
創建年代は定かではありませんが、この辺りは古くは江戸幕府による御犬のお囲場(五の囲)があり、その後はしばらく鷹場になっていたようなので、江戸時代中期以降の創建なのかもしれません。ネットの情報によると、中野氷川神社の境外末社とのこと。
御由緒板らしきものはあったのですが、読み取れなかったため、境外社に掲示されていた『「一本檜稲荷」の由来』をこちらに記します。
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江戸時代の将軍や諸大名は、放鷹(ほうよう)または鷹狩と称し、飼いならした鷹を放して小鳥や小動物を捕らえる狩猟を盛んに行いました。そのため鷹匠(たかじょう)といって将軍の鷹を預かって飼いならし鷹狩に従事する専門の職もありました。この将軍や諸大名の放鷹は、「お鷹野」と呼ばれていましたが、後には鉄砲以外の狩猟全般のことを指すようになりました。
そして三代将軍家光のころから、ここ中野方面での鷹狩が始まったようです。
しかし五代将軍網吉は「生類あわれみの令」を定め、鷹狩も廃止し、当地には広大な「囲」(おかこい)と呼ばれる野良犬の飼育施設が設置されました。その面積は20万坪以上といわれ、現在の「中野駅」「中野サンプラザ」「中野区役所」周辺もその敷地だったようです。
八代将軍吉宗になると、鷹狩も復活し、享保元年(1716年)9月には中野のお鷹場も再興されました。以後、歴代の将軍はほとんど中野方面に遊猟したようです。特に八代将軍吉宗の中野への遊猟は多く、吉宗の命によって、当時一帯は桃の木が植えられ、「桃園」と呼ばれた花見の名所となりました。
当「一本桧稲荷」の由来については定かではありませんが、当地の長者によると遥か昔の時代、川の氾濫や飢饉の際、これを鎮めるために建立したものが始まりだったとの言い伝えがあるそうです。もっとも、稲荷神社の総元締めである京都の伏見稲荷は穀物の神であり、農村地帯においては天災地変を無くすことがイコール豊作・生活の安定に直結するわけですから、この由来・言い伝えもほぼ的を得ているのではないでしょうか。
見過ごしてしまうほど小さな祠ですが、八代将軍吉宗が賞賛した絵(ひのき)があったとのことも、逸話として残っております。
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最寄駅は、JR中央本線「中野」駅。
MAP
東京都中野区中野3丁目49