太田神社(東京都大田区)
2020.02.13[ 神社 ]
那須与一の守本尊を御神体として安置する「太田神社(東京都大田区)」。
創建年代は定かではありませんが、江戸時代初期頃ではないかと云われています。江戸時代には「家運八幡宮」「正八幡宮」と称し、市ノ倉村の鎮守でした。
明治初期に現在の「太田神社」に改称。「大田区だから太田神社」?いや、字が違います。伝えられている話のひとつとして、「かつて市ノ倉から六郷までを所有していた太田新六郎(太田康資)の氏神だったから」というのがあります。他にも諸説あるようなのですが、いずれも確たるものではないそう。
「那須与一の守本尊」についてですが、境内へ続く石段にある「八幡大菩薩像由緒碑」には、以下のように記されています。
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那須與市宗高と守本尊由来記
源平盛衰記の花形、那須與市は後世に弓矢の神といわれた武人である。この武人の守本尊と伝えられる八幡大菩薩像と太田神社との因縁は、次のように伝承されている。
この地に川島百太郎という旧家があり、徳川時代、この家(当主定右衛門)の女人が将軍家御奥の局方に奥女中として永年実直に奉公した。永暇を願い出て帰宅の際、局から労をねぎらって下賜された八幡大菩薩像を持ち帰ったが、後に民家に祀るのをおそれて正八幡宮に奉納した。そのため正八幡宮の本尊と誤伝されたという。
明治初年の神仏分離で正八幡宮は太田神社と改称、隣接の長勝寺は別当職を退き、八幡大菩薩像を同寺に移した。先年、この像があまり古くなったので、ある塗師に塗り替えを依頼した。塗師が旧箔を落とし始めると、急に気分が悪くなって病床についたので、像を住職に返すとたちまち病気が治った。住職が不思議に思って像を調べると、背部に「那須與市宗高守本尊」と記されていたという。
当太田神社は、第二次世界大戦の空襲で焼失したが、この像は長勝寺に安置されていたので焼失をまぬがれ、昭和二十二年頃、現在の住職によって同神社に奉還された。
この像の高さは台座を含めて十五・五センチで、背部の旧箔の落ちた部分に、薄れていて全部は判読できないが、正八幡と那須與市宗高の墨書が確認できる。
因みに当太田神社のご祭神は、誉田別命、(応神天皇)で、奥津彦命、奥津姫命(竃神)、宇迦御魂命(稲荷)、高龗命(貴船)が合祀されている。
八幡大菩薩像由緒碑 昭和六十三年十一月三日建立
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御祭神は、主祭神として誉田別命。合祀神として、澳津彦命・澳津姫命・火産霊神・宇迦之御魂命・高龗神。明治後期に地域にあった竃神社・稲荷神社・貴船神社を合祀したことによるもの。
最寄駅は、東急池上線「池上」駅。徒歩15〜20分ほど。
鳥居。池上道から少し離れたところにあります。
拝殿は丘の上にあります。上からの見晴らしはなかなかのもの。
石段を登った後も少し歩きます。
拝殿と狛犬。こちらの狛犬は、左右どちらも子供を抱えています。
境内社の稲荷社。