谷保天満宮(国立市谷保)
2022.06.23[ 神社 ]
関東三大天神のひとつ・「野暮天」の語源にもなったと伝わる「谷保天満宮(国立市谷保)」。
903年(延喜3年)、菅原道真が左遷された太宰府にて死去。この知らせを聞いた道真の三男・菅原道武が、配流されていた谷保にて父の像を刻み祀ったのが起源と伝わっています。その後947年(天暦元年)に北野天満宮が造営された際に、村上天皇の勅命により社殿が造営されました。
さらにその後の1181年(養和元年)、道武の末裔である津戸三郎為守が霊夢を見、現在地へ遷座しました。元の鎮座地には現在「日新稲荷神社」があり、境内には「谷保天満宮発祥之地」と刻まれた石碑が建っています。
亀戸天神社・湯島天満宮と合わせて関東三大天神と呼ばれています。しかし、その経緯を考えると(由緒通りなら)「最も古い天満宮」と言う方がふさわしい気がします。ちなみに太宰府天満宮の創建は919年(延喜19年)、北野天満宮の創建は上記の通り947年(天暦元年)。
境内にある北多摩神社青年会による「由緒」には、以下のように記されています。
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昌泰四年菅公太宰府に遷らせ給う所、第三子道朝臣この地に配流され給う、父君薨去の報に朝臣思慕の情に堪え給はず父君の尊容を刻み、天神島(現府中市本宿)に鎮座す。
養和元年十一月三日裔孫津戸三郎為守霊夢を蒙り現在の地に遷座す。天暦元年京都北野天満宮造営の折、勅使の下向ありて官社に列せられ、関左第一の天満宮と称せられ、明治十八年府社に列せられる。
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上述の案内板によれば、主祭神は、菅原道真公、菅原道武。
時は下り江戸時代中期、旧暦の10月(神無月)に目白で御神体の開帳を行なっていたことから、時の狂歌師・大田南畝が以下の唄を詠んだそう。
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神ならば
出雲の国に行くべきに
目白で開帳
やぼのてんじん
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これが、「野暮天(やぼてん)」の語源だとも云われています(諸説あります)。
最寄駅は、JR南武線「谷保」駅。なお、現在は駅名のみならず地名も「やほ」と読むのですが、これは鉄道開通時(1929年)になぜか?駅名を「やほ」としたことから派生したもの。本来は「やぼ」と読むのが正、なのだそう。社名はもちろん「やぼ」と読みます。
現在の甲州街道側にある大鳥居。境内には降っていく形式のいわゆる「下り宮」なのですが、これは多摩川の氾濫により甲州街道の位置が変わったことによるもの。元々は甲州街道は神社の南側(下側)にあったのだそう。
大鳥居近影。奥には二ノ鳥居が見えます。その先から下ります。
石段を下って右側に拝殿が見えます。
座牛像。これとは他に「撫牛」像もあります。
拝殿。
境内社の厳島神社。
拝殿、そして本殿の裏にある、五社合祀殿(奥)と三郎殿(手前の石宮)。三郎殿には、菅原道武公が祀られています。
梅林にお祀りされている境内社。
境内社の稲荷社。
境内社の第六天神社。
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東京都国立市谷保5209