小田原山王原一里塚と江戸口見附跡
2019.09.27[ 史跡・公園等 ]
東海道・小田原への江戸側の出入り口「小田原山王原一里塚と江戸口見附跡」。
江戸・日本橋から20番目の一里塚があった場所、ということは、日本橋から約80kmほど、ということになります。
「小田原城址江戸口見附跡」という標識の立っている東海道の北側には、少しだけ周りから高くなっているところに老松があり、かろうじて(?)名残を感じさせますが、東海道(国道1号線)は道路幅が大きく拡張されているため、下の説明にあるような枡形門特有のクランク跡などは見ることができません。
道路南側には「一里塚址」という石碑が建っていますが、おそらく道路拡張後に整備されたものと思われます。
「一里塚址」そばの案内板「江戸口見附並びに一里塚」には以下のように記されています。
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見附とは、城の枡形門に設けられた見張番所であって、武器を用意し昼夜番士が詰めて警戒にあたる場所であるが、本城より外濠城門を示す場合が多い。
小田原城は、天正18年(1590)の豊臣秀吉との小田原合戦の際には、町ぐるみ堀や土塁で囲まれていたが、江戸初期にこの構造を壊して東海道を通す際に、桝形が作られた。小田原城から江戸に向かう出口であったため、江戸口見附と名づけられた。
また、ここは江戸から20番目の一里塚があった場所でもある。
慶長9年(1604)江戸幕府将軍徳川家康は、息子秀忠に命じて、東海道、東山道、北陸道に、江戸日本橋を起点として一里(36町・約4キロ)ごとに塚を造らせた。塚は男塚、女塚と、街道の左右に対で置かれ、広さは通常5間(約9メートル)四方であった。塚には榎を植え、旅人の1里ごとの目印とするとともに、夏季における木陰の休憩場所とした。
天保年中の相模国風土記稿には、「江戸口の外南側にあり、高六尺五寸、幅五間ばかり、塚上榎ありしが、中古枯れ、今は松の小樹を植ゆ。古は双●なりしに、今隻●となれり。けだし海道の革まりし頃、一埃は海中に入りしならん。これより東は小八幡村、西は風祭村の里●に続けり」とされている。
(※●は、土へんに候?)
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最寄駅は、各線「小田原」駅。徒歩20分ちょっと。
北側にある案内板。大正時代の写真だと、クランク状になっているのが確認できます。
老松。支柱で支えられています。
南側にある案内板。
「一里塚址」。