新田義貞公之像(府中市片町)
2025.02.25[ 史跡・公園等 ]
分倍河原駅前ロータリーに建てられている「新田義貞公之像(府中市片町)」。
建武の新政において活躍した武将・新田義貞。鎌倉への進軍の途中、分倍河原で鎌倉幕府軍と戦った(分倍河原の戦い)ことから、この地に像が設置されました。
府中市による案内板には、以下のように記されています。
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この像は、新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけて火花を散らした分倍河原合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして制作したものである。
元弘三年(一三三三)五月八日、上州生品神社(群馬県新田町)の社前で鎌倉倒幕の旗を上げた新田義貞は、越後・甲斐・信濃の同族軍等を糾合、翌九日には利根川を渡って武蔵国へ入り、千寿王(後の足利義詮)と合流し一路鎌倉を目指して南下した。一方、幕府軍は入間川で新田軍を阻止するため北上、同月十一日、両軍は小手指原(所沢市)で遭遇し合戦となった。合戦の勝敗は容易に決しないまま十二日の久米川の合戦につづき新田軍有利の中で、幕府軍は陣立てのため急ぎ府中の分倍河原まで退いた。
同月十五日未明、新田軍は多摩川突破を目指して武蔵国府中を攻め分倍河原において大いに戦ったが、泰家率いる幕府軍の逆襲にあって大敗を喫し、堀兼(狭山市)まで敗走した。この時、新田軍の手によって武蔵国分寺の伽藍は灰燼に帰してしまったといわれている。その夜、堀兼まで後退した焦燥の義貞のもとに相模の三浦義勝らが相模の国人衆を引き連れて参陣した。幕府の本拠地である相模の国人衆の加勢に意を強くした義貞は、翌十六日の未明に怒涛の如く分倍河原を急襲、前日の勝利におごり油断していた幕府軍は、武具を整える間もなく総崩れとなり、鎌倉の最後の防衛線である多摩川は一気に破られ分倍河原合戦は新田軍の大勝利に終わった。多摩川を越えて鎌倉に進撃した新田軍は、鎌倉で激しい市街戦を展開し、終に百四十年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させたのである。
こうした史実を通して市民の郷土史への理解を深めるとともに、これを後世に伝えるため、日本の中世史上重要な意義を持つ分倍河原合戦ゆかりのモニュメントを制作し、この地に設置するものである。
制作は、我が国彫刻界の重鎭で文化功労者・日本芸術院会員の富永直樹先生、題字は、府中市長吉野和男の揮毫による。
この「新田義貞公之像」が永くふるさと府中の歴史を伝え、市民の心に生きつづけることを願うものである。
昭和六十三年五月
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最寄駅は、JR南武線・京王電鉄京王線「分倍河原」駅。
外観。駅前ロータリーの中央に建てられています。
府中市による案内板。
冬場の午前中に訪問したのですが、ロータリー全体が完全に日陰になる時間帯で。。実は写真はほぼシルエットの状態でした。かなり無理やり明るくしています。
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MAP
東京都府中市片町3丁目26−15