中島飛行機武蔵製作所 爆撃照準点(武蔵野市緑町)

2024.09.27[ 史跡・公園等 ]

中島飛行機武蔵製作所 爆撃照準点(武蔵野市緑町)

本土空襲の最初の目標となった場所 中島飛行機武蔵製作所 爆撃照準点(武蔵野市緑町)

太平洋戦争において本土空襲の最初の目標となった場所「中島飛行機武蔵製作所 爆撃照準点(武蔵野市緑町)」。

現在武蔵野中央公園がある場所は、かつて中島飛行機武蔵製作所西工場のあった場所。中島飛行機武蔵製作所は「零戦」や「隼」のエンジンを製造しており、当時東洋一の航空機エンジン工場でした。そういったことから、米軍による日本本土空襲の最初の目標にもなりました。終戦を迎えるまでに計9回の空襲があり、工場内で200名以上、周辺地域で数百名の市民の犠牲者が出ました。

公園内東側には現在モニュメントがあり、案内板が設置されています。そのうちの「I」が振られた案内板には、以下のように記されています。

==========

ここは、東洋一といわれた航空機エンジン工場=中島飛行機武蔵製作所の跡地であり、マリアナ諸島からの日本本土空襲の最初の目標となった場所です。

この都立武蔵野中央公園の場所には、戦時中、中島飛行機武蔵製作所という東洋ーといわれた航空機エンジン(時は「発動機」と呼ばれました)の大工場がありました。零式戦闘機(通称「零戦」)や一式戦闘機「隼」のエンジンもこのエ場で製造されていました。そのために、先の大戦末期の1944(昭和19)~1945(昭和20)年にかけて、アメリカ軍によって激しい空襲を受けました。
アメリカ軍は、1944(昭和19)年7月にマリアナ諸島サイパン島を占領し、そこに大型爆撃機B29の基地を築きます。そして、同年11月24日には、同島から日本本土空襲を開始しました。その最初の目標が、この中島飛行機武蔵
製作所でした。それ以後、この工場は合計で9回の空襲を受け、工場内だけで
200名以上の犠牲者、工場をはずれた爆弾によって周辺の地域でも数百名の市民が巻き添えとなりました。
この説明板のある場所は工場のほぼ中心にあたり、空襲の際には「爆撃照準点」(Aiming Point)として、たびたび標的となりました。

一中島飛行機株式会社一
ここに工場を開設したのは、中島飛行機株式会社という戦前日本の航空機製造のトップメーカーでした。同社は、群馬県出身の海軍機関大尉であった中島知久平(1884-1949年)が、兵器としての航空機に注目し、その開発・製造には民間企業の創設が必要であるという考えから海軍を辞め、1917(大正6)年に郷里で飛行機研究所を創設したことに始まります。やがて、太田製作所(陸軍・機体組立)、小泉製作所(海軍・機体組立)など群馬県を中心として、おもに東日本に展開しました。東京では、1925(大正14)年に、エンジンの設計・製造のため、東京製作所(後の荻窪製作所)が開設されたのが最初です。
同社は、日中戦争(1937~45年)、太平洋戦争(1941~45年)にともなって急成長を遂げます。同社の代表機は、九七式艦上攻撃機、一式戦闘機「隼」、二式戦闘機「鍾馗」、四式戦闘機「疾風」、夜間戦闘機「月光」などです。その他に、三菱重工業株式会社が開発した「零戦」も、エンジンはすべて中島飛行機で製造され、機体も3分の2が中島飛行機で製造されました。太平洋戦争期には、中島飛行機株式会社と三菱重工業株式会社の2社で日本の航空機全製造機数の6割以上を製造しました。

一中島飛行機武蔵製作所について一
1937(昭和12)年、日中戦争の始まるこの年、軍部は航空機各社に対して増産を要求します。中島飛行機では、当初、東京製作所の拡張を検討しますが、周辺地域の市街地化のため断念し、北多摩郡武蔵野町に新工場を建設することとなります。

==========

中島飛行機は戦後解体されましたが、SUBARUや旧プリンス自動車(現在の日産自動車)等、その技術を受け継ぐ会社が多く残っています。

武蔵野中央公園の最寄駅は、西武新宿線「東伏見」駅。JR中央本線「三鷹」駅からも、徒歩圏です。

中島飛行機武蔵製作所 爆撃照準点(武蔵野市緑町)写真

武蔵野中央公園内の「原っぱ広場」。

中島飛行機武蔵製作所 爆撃照準点(武蔵野市緑町)写真

「爆撃照準点」モニュメント。公園の東側にあります。

中島飛行機武蔵製作所 爆撃照準点(武蔵野市緑町)写真

案内板のひとつ。

中島飛行機武蔵製作所 爆撃照準点(武蔵野市緑町)写真

こちらは中島飛行機武蔵製作所にあった地下道の床面の一部。案内板には以下のように記されています。

==========

中島飛行機武蔵製作所「地下道」について

2016(平成28)年8月、この公園の拡張に伴い、地下埋設物撤去工事が実施されました。その際、この周辺の地下から、1938(昭和13)年の工場開設当時の「地下道」の、鉄筋コンクリート製の「床面(床盤)」と、「階段室」など地下施設の一部が発掘されました。
「地下道」は、さまざまなタイプがあったと思われますが、発掘されたものは、幅・高さともほぼ同じ内寸約2.7m、壁や天井の厚さを含め外寸約3mの大きさで、これが工場の地下に縦横に通っていました。
ここに展示しているものは、その「床面(床盤)」の一部です。
(資料提供武蔵野市)

==========

MAP

東京都武蔵野市緑町2丁目6−36

特集

東京ラーメンストリート特集

江戸七氷川巡り

日本橋七福神巡り

「八八幡詣で」でご利益八倍?江戸八所八幡巡り

東京五社巡り

新横浜ラーメン博物館特集