勘九郎地蔵尊(横浜市南区六ツ川)

2022.10.02[ 史跡・公園等 ]

勘九郎地蔵尊(横浜市南区六ツ川)

武相国境の尾根道に建てられたお地蔵さま 勘九郎地蔵尊(横浜市南区六ツ川)

武相国境の尾根道に建てられたお地蔵さま「勘九郎地蔵尊(横浜市南区六ツ川)」。

この尾根道は、古い時代には戸塚・品濃方面と大岡・弘明寺方面の間を結ぶ鎌倉道の脇道として利用されていたそうで、このお地蔵さまは江戸時代には道標としての役割も担っていました。

六ツ川大池地区青少年指導員協議会による『勘九郎地蔵尊跡』と書かれた案内板には、以下のように記されています。

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現在ここに在るお地蔵さまの右正面には「為二世安楽也」左正面に「明和九年辰年十一月」(1772年11月)と彫られているのが読めます。右側側面には「くめうじ」(弘明寺)左側には「とつか」と刻まれ、ここが武蔵の国と相模の国の国境(くにざかい)で、戸塚・金沢方面へ旅する人の道標(みちしるべ)となっていたのがわかります。
当時の引越村の村民有志が道標をかねた地蔵を造り、村人の二世(現在と死後)の安楽を願い、ここにまつりました。
勘九郎地蔵尊は椿の木があったことから「椿地蔵」とも言い伝えられ、元はここに在りましたが、享和四(1687)年に久保村(現在の港南区大久保)の自性院(じしょういん)というお寺に移されました。万治三(1660)年と書かれた古いお地蔵さんです。この辺りは、昔は自性院の寺領(所有地)でした。

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上記の通り初代の地蔵尊は大久保山自性院に移されており、正確には「跡」ということのようですが、1772年(明和9年)に二代目が建てられ、さらに現在は子育て地蔵尊も一緒に祀られています。

ここのお地蔵さまが「勘九郎地蔵」と呼ばれるようになった理由については、初代のお地蔵さまが現在安置されている『大久保山自性院』のホームページに記されています。

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昔、勘九郎という歌舞伎役者(一説には金沢の薬売り)が旅の途中に武相国境付近を通りかかったところ、盗賊に襲われて命を失ったそうです。

それを哀れと思った村人たちが、供養のために建立したのがこの勘九郎地蔵尊だと伝えられております。

勘九郎地蔵尊は、当初は道標と共にあり、人々の旅の安寧を見守っていましたが、ある時、村で疫病が流行り、多くの方々が亡くなる事態になったことがあったそうです。

そこで、村の方々がこの勘九郎地蔵尊を供養し祈願すると、たちまち疫病が鎮まりました。

それから、この勘九郎地蔵尊は地域の方々の深い信仰を集め、病気平癒、商売繁盛、イボとり等の御利益があると言われるようになったそうです。

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(以上、『大久保山自性院』ホームページより一部抜粋)

最寄駅は、京浜急行本線「弘明寺」駅。直線距離だと1kmほどですが、徒歩だと結構かかると思います。。

勘九郎地蔵尊(横浜市南区六ツ川)写真

結構な坂の途中(と言ってもほぼ頂上付近です)にあります。

勘九郎地蔵尊(横浜市南区六ツ川)写真

覆屋の中の様子。とても綺麗に管理されているようです。

勘九郎地蔵尊(横浜市南区六ツ川)写真

「由来書」の脇には、かつてのこの場所の写真(昭和後半でしょうか?)が添えられています。

勘九郎地蔵尊(横浜市南区六ツ川)写真

MAP

神奈川県横浜市南区六ツ川2丁目146

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