義民地蔵尊(川崎市高津区久末)
2026.03.22[ 史跡・公園等 ]

久末村義民の門訴事件の犠牲者を弔うために建立された「義民地蔵尊(川崎市高津区久末)」。
1693年(元禄6年)、武蔵国橘樹郡久末村の農民が、領主・佐橋佳純の屋敷に年貢減免の門訴をしたところ、20名中19名が殺害されたという「久末村義民の門訴事件」。後に村では犠牲者の霊の供養のために数基の地蔵尊を建立しました。
こちらの地蔵尊は、1797年(寛政9年)に建立されたもの。『義民地蔵尊由来』には、以下のように記されています。
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義民地蔵尊由来
貞享三年(西暦一六八四年)頃、五代将軍徳川綱吉の旗本、佐橋内蔵助佳純の知行地であった、当久末村は、元石高二百二十九石を、一躍百石高となり久未村二十九戸の村人は、疲労困窮の極に達した。時の蓮花寺住職の祐長師に村人一同は、恰も盲亀の浮木と老師を尋ねて、焦眉の急に迫った窮状を縷縷密かに訴えた。只管批の苦患より脱すべき詮はないかと口説いた。老師に、非常に同情を寄せたが、出家の身、如何にも助ける術も無く、村人は既に萬策無き餓死線上に漂い、遂に門訴決行に踏み切った。(蓮花寺住職祐長師は、貞享五年蓮花寺に入山、元禄十五年十二月四日他界)時は元禄六年五月、農繁期も顧ず、四谷大番町の佐橋家上屋敷へ直訴に及んだのである。
鈴木平左ヱ門 森徳兵衛 森八右ヱ門 根笹善右ヱ門 根笹七右ヱ門 森豊右ヱ門 森金右ヱ門 森傳兵衛 森傳重門 鈴木市左ヱ門 森庄八良 森勘左ヱ門 森三良右ヱ門 森次良右ヱ門 森小兵衛 藤田平八 森八良右ヱ門 森清左ヱ門とその子息
右十九名が犠牲となり憤死したのである。その間七年間余りであった。
後、領主佐橋は反省し重税を解き村人は春を迎えた。村人はその後、犠牲者の霊を慰めようと、延享三年その事件発生五十三年の後、他村境の久末一番地に名主発起に依り義民地蔵尊一体を建立したのである。
日々の生活を取り戻しつつある村人は、帰らぬ犠牲者の心中を察し申し、事の初め等を語った。
蓮花寺境内に供養のため、地蔵尊建立後十八年経た明和元年に宝篋印塔を建立した。時の蓮花寺住職源覚師を仰視、有縁無縁六道四生乃至法界平等利益謹筆
他村の有志も数多いと知る。その名も未だ法篋印塔に名を残している。
日々の生活を元に甦る村人は思い返すと犠牲者の心根を今迄の供養に物足らず村人総意も集まり二十五年過ぎた後、寛政元年同じ地蔵尊屋内にあと一体を更に建立したのである。その間、線香の香り絶え間無く回向の人も数多く、子育て地蔵と何時の日か、口伝えとなり詣でる人が絶え間無かった。
この地蔵尊は、右の由縁に依り、蓮花寺下の地蔵尊と共に、犠牲者の子孫の多いこの土地に、ご利益あやかろうと、寛政九年正月談合の基に、同年七月建立したものである。
外に かげろう おもかげ 偲ぶ 地蔵尊
隣の庚申塔は天保年間の水飢健の折、世人の助けの道しるべとして、天保十三年二月建立したものである。
常次郎・清五郎・吉左工門・三五郎・久次郎、の五名が申塔の発起人である。
本由来記は二百八十四年後の今日、一部改明し、当久末村先祖の犠牲を猶一層、後世に言い伝えて、当地蔵尊の供養と回向を、来知の方々に願いながら記したものである。
昭和五十二年九月二十一日
渋谷秋男 謹
久末義民地蔵由来の立札が老朽し、解読困難のため平成二十二年秋彼岸を勝縁として新たにしました。
平成二十二年 秋彼岸
南林山 普門院 蓮花寺
第四十二世 盛重 代
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最寄駅は、横浜市営地下鉄グリーンライン「高田」駅。徒歩約30分ほど。

外観。旧道沿いにあります。

正面から。

案内板。

地蔵尊像。

天保13年(1842年)建立の庚申塔。
MAP
神奈川県川崎市高津区久末1657−2









