手子神社(横浜市金沢区釜利谷南)
2022.12.12[ 神社 ]
瀬戸神社の御分霊を勧請し奉賽したのが起源と伝わる「手子神社(横浜市金沢区釜利谷南)」。
1473年(文明5年)、当時釜利谷の領主だった伊丹左京亮(伊丹経貞)が、瀬戸神社の御分霊を祀ったのが起源と伝わっています。江戸時代には釜利谷三村(郷宿村・坂本村・赤井村)の総鎮守として崇敬されていました。またこの場所は、歌川広重によって描かれた浮世絵「金沢八景」のひとつ「小泉夜雨」の舞台と云われています。
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文明五年(一四七三)釜利谷の領主であった伊丹左京亮が、瀬戸神社の御分霊を宮ヶ谷の地に勧請したのを当社の創始と伝へる。
延宝七年(一六七九)伊丹氏の子孫である三河守昌家の子、江戸浅草寺の智楽院忠蓮僧正が、現在の地に遷祀して以来、釜利谷一郷の総鎮守として衆庶上下の崇敬を集め、明治六年村社に列格、社殿は大正十二年の震災で倒壊の後、同十五年に再建、昭和四十五年御屋根を総銅板葺に改修した。
現在は、宗教法人として神社本廳に所属する。
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御祭神は、大山祇神。
現在は瀬戸神社の兼務社となっているようです。
最寄駅は、京浜急行本線「金沢文庫」駅。徒歩約10分ちょっと。
正面の鳥居。短めの石段を登ったところに拝殿があります。
鳥居のそばにある御由緒板。
鳥居の扁額。
拝殿。
拝殿前の獅子山。
境内社の竹生嶋弁財天社。『手子神社由緒』の中、『竹生嶋弁財天社』部分には、以下のように記されています。
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古く「小泉夜雨」の起源となった小泉の瀟湘の松の下の祠であったが、享保八年(一七二二)江戸の木島又右衛門政尚といふ人が玄峰和尚と共に、同所に石窟を構築し遷宮。以後、厄除、子授けの御利益があると信仰された。昭和十五年、時局により現在地に遷座した。
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もともと手子神社の東側にあったそうですが、1940年(昭和15年)に日本海軍の施設建設により神社内の現在地に移動しました。神社の東側は現在は住宅地が広がっています。
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神奈川県横浜市金沢区釜利谷南1丁目1−8