鈴降稲荷神社
2019.11.07[ 神社 ]
徳川家康の「伊賀越え」の際の逸話が伝わる「鈴降稲荷神社」。
江戸時代には四谷仲殿町にあり、伊賀町・仲殿町の鎮守として祀られていたものが、元禄年間に赤坂に遷座したと伝わっています。関東大震災後に氷川神社内の稲荷社に合祀されました。ということは、こちらは現在はいわゆる「元宮」ということになるのですね。
祠の脇にある御由緒板には、以下のように記されています。
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鈴降稲荷神社はもと四谷仲殿町にあり、伊賀町、仲殿町一体がその氏子であった。元禄八年、この社地が御用地となったので赤坂一ツ木に替地を給され、ここに遷座奉安された。その折任命された別当は鈴降山神宮寺別当願性院と称え毎年正月四日徳川家の武運長久を祈願したお札を将軍に献上のため登城するならわしがあった。明治十三年社殿類焼に遭い仮殿を建てて神鈴を奉安、更に明治二十五年内陣を土蔵造りとしたが大正十二年の震災で拝殿は大破、土蔵は崩壊したので大正十四年赤坂氷川神社境内稲荷社へ合祀された。今も一ツ木の横町は鈴降横町と称される所以である。
往古からのいいつたえによると朱雀院天台の頃の創設なりとか。花園院正和年中、稲荷の神七歳の童女にのりうつり「我は鈴降宇賀三社の霊神なり、わが持つところの鈴は天降の鈴なり一たび拝する者には家門繁栄ならしめん」と信託あり、よって鈴降の神号とすと。
又一説には天正十年織田信長本能寺の変に遭いし折、京阪にありし徳川家康急遽三河に帰らんとて、伊賀越えの際山中にて道に迷いし時、遥かに鈴の音が聞こえるので、その方向にたどりつくと観音堂あり堂主山名孝倫なる者がいて之を迎え厨子の中より三箇の鈴を取り出し家康に献じ、且つ付近の住民を集めて道案内と警護をしつつ伊賀の白子に出、舟にて海路浜松へ帰ることが出来たという。家康は、此の恩義を徳とし、江戸幕府を開くや、孝倫はじめその折の郷民を江戸に召して、四谷に地を給し、これを伊賀同心組とした。
よって彼等は一宇の祠を建て、さきの鈴を神鈴として鈴降稲荷と号し伊賀組の鎮守としたという。
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徳川家康の逸話の残る神社は都内に結構な数ありますが、その中でもなかなか興味深い逸話だと思います。
最寄駅は、東京メトロ千代田線「赤坂」駅、あるいは東京メトロ各線「赤坂見附」駅。
赤坂見附方面から来るなら、この案内板が目印。
細い路地の先に赤い幟が見えます。