森浅間神社(横浜市磯子区森)
2021.08.17[ 神社 ]
鎌倉時代初期に、交通の要衝に木花咲那姫命の御分霊を奉じ創建されたと伝わる「森浅間神社(横浜市磯子区森)」。
創建に関しては諸説あるようですが、もっとも古いものだと、鎌倉幕府開府後に源頼朝の命により、上総下総(現在の千葉)方面への海路の要衝であったこの地に、富士より木花咲那姫命の御分霊を勧請し創建されたのが起源と云われています。また鎌倉幕府最後の将軍・守邦親王が鎌倉を脱して森村へ移った際に薬師如来像を本地仏として安置したことから、古くは「親王権現」と称していたそうです。
上社に掲げられている「森浅間神社開創の縁起」には、以下のように記されています。
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森浅間神社の古は相州鎌倉扇ヶ谷に在り亀谷山権現堂福禪寺と号し建久八年己六月(一一九七年)権現堂開山幸蔵坊長慶比丘(姓藤原)右大将源頼朝卿の請に因り不動明王を奉じ天下泰平を祈る 当時鎌倉より北郷上野村峯天矢部野笹下を通じ對岸の上総下総方面への海路及び戦略上の要所である武州森村に幕府は陣屋を作るに当り当地我沙羅山山頂に霊峰富士より木花咲那姫命の分霊をうけ堂を建立した
長慶以降権現堂福禪寺の法灯を継ぐ歴代住職はこの地に赴き各種祈願をなしたと言うこれが浅間神社の起りなり 鎌倉幕府最後の将軍守邦親王治世嘉暦三年(一三二八年)権現堂六代権僧都法印長円親王の御祈祷所として守本尊薬師仏像を賜り護持す 元弘三年(一三三三年)鎌倉に戦乱ありしときこの薬師仏像を奉じ親王は長円を伴い鎌倉を脱し森村に移り建武二年(一三三五年)五月二八日森浅間神社の本地仏として安置す現在当社の御神体なり この時を持って森浅間神社の創設とする説もあり
明応年中(一四九二年〜一五〇一年)権現堂十五代長恵の時鎌倉を退転し森村に居住更に文禄年中(一五九二年〜一五九六年)十九代長観の時松本の里に移りし後も代々修験道職を持って当社に奉じ明治維新後は松本姓を名乗り神官職を護持し現在に到る
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根岸から磯子にかけては、海岸線に切り立つように聳える丘陵の地形から、鎌倉時代より「屏風ヶ浦」と呼ばれるようになったと云います。現在も京急本線の駅名として残っていますし、また高校野球で有名な「横浜高校」の校歌でも唄われていますね。
現在の御祭神は、木花咲耶姫命・源頼朝公・素戔嗚命・天照大神・倉稲魂命・火産霊命・国常立命。
最寄駅は、JR根岸線「磯子」駅。下社までなら徒歩15分ほどでしょうか。しかし、住宅街の中で細い路地を進まなければならないので、迷ってしまうかも?
こちらは下社。南側から向かい、環状2号線の高架をくぐった先にあります。古くから上社と下社があったそうですが、明治時代に近隣の十二社(神明宮・牛頭明神・神明大明宮・稲荷神社・荒神宮・御嶽宮・稲荷神社・荒神宮・白幡大明神・神明宮・第六明神・子大明神)が浅間神社に合祀され、下社に祀られています。
下社近景。写真を撮影した側(下社に向かって右側)に、上社への登り道があります。
石段の途中にある鳥居。ここから先、百段以上の石段をひたすら登ります。かなりヘビーです。。
頂上にある上社。
上社拝殿。夏場だったので葉が多く茂っており、頂上からの眺めは決して良くはなかったのですが、木立の先に海も見えました。
御由緒板。
拝殿前の狛犬。
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神奈川県横浜市磯子区森2丁目16−7