京極稲荷神社

2019.06.17[ 神社 ]

讃岐国丸亀藩の下屋敷に祀られていたお稲荷さま 京極稲荷神社

讃岐国丸亀藩の下屋敷に祀られていたお稲荷さま「京極稲荷神社」。

この地には江戸時代、讃岐国丸亀藩の下屋敷(戸越屋敷)があったそうです。そこに、丸亀藩藩主・京極家の守護神として祀られていたのがこのお稲荷さま。京都伏見稲荷大社の御分霊を祀ったとも伝わっています。明治維新後は地元の方々が譲り受け、現在地に遷座しました。

境内に掲げられている御由緒には、以下のように記されています。

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京極稲荷神社の草創は、約三百六十年前の寛永十二年(一六三五年)に始まります。
四国の讃岐丸亀五萬二千石の城主、京極家は、上屋敷は虎ノ門、下屋敷は二箇所に所有し、白金三光町と当地にありました。当地の屋敷は、敷地面積八千四百坪に及ぶ広大なものでした。
当稲荷神社のご神体は、豊受大神と申され、京都、伏見稲荷の分神とも伝えられています。
京極家の守護神として、現在の小山二丁目十六番地辺りの茶畑の一隅に十二坪の神殿を構えていました。
明治四年の廃藩置県で藩地奉還の世となり、京極家は当神社の管理を地域住民に委ねて帰国しました。
大正七年二月に、地域の有志がこの境内地を譲り受け、神社を移して奉祀しました。
以来、毎年二月の「二ノ午の日」には、在住各位の奉賛により、祭祀をたつことなく今日に至っております。
境内には、地域の後地大神輿が、大正十四年から大切に保管されております。
昭和二十年五月二十三日の大空襲で、この周辺は、後地交差点から星講堂の基礎が見える程に、悉く焦土と化しました。
しかし、大神輿は、不思議にも焼失を免れ、往時の雄姿を今に残しています。このことは、当稲荷神社の紛れもない加護によるものと、語り継がれております。
なお此の度の再建にあたり、御影石の社号標、祠の土台等は、後地小学校旧正門の石柱を加工し、使用したものです。

平成九年十一月三十日(遷座祭の日) 世話人 一同

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御祭神は、豊受大神。

最寄駅は、東急目黒線「武蔵小山」駅。徒歩5分ほど。

境内に掲げられた御由緒。

京極稲荷神社。 #theta360 – Spherical Image – RICOH THETA

RICOH THETA SCによる360度画像(2019.4撮影)。

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