深大寺御嶽神社(三鷹市深大寺)
2025.11.27[ 神社 ]

江戸時代創建・深大寺新田の鎮守として勧請された「深大寺御嶽神社(三鷹市深大寺)」。
1744年(延享元年)に、この地を開墾した井上氏によって深大寺の別当・多門院の山伏から御嶽大権現の木札を授かり新田鎮護の神として祀ったのが起源と伝わっています。
境内に掲げられている『御嶽神社由来』には、以下のように記されています。
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<深大寺新田の誕生>
1716年(享保時代)のころ、調布“神代村”の深大寺絵堂の井上氏は、新田開発のためこの地に移住し開墾した。元文4年までは井上氏2戸であったが、文政のころ、自鳥、嶋田、山本、小林各氏等が移住して14戸になったという。元文元年辰12月、御代官上坂安左衛門の検地では、
下畑9町9反、林畑10町9反、野畑11町2反、合計32町1度6歩(1町=10反=3千歩=3千坪=約17㎡)
薬所30間✕21間、死馬捨て場19間✕13間(1間=約182cm)
以上を関東地方御用係を兼務していた江戸南町条行(後に寺社奉行)大岡越前守に報告している。
<御嶽神社のおこり>
武州、御嶽神社に御嶽大権現の霊場があり、山伏の修験道が盛んであった。1744年、延享元年12月吉日(八代将軍吉宗、桜町天皇の時代)調布“神代村”の深大寺の別当、多門院(現在洋大寺小学校)より、井上氏が勧請(神仏の分霊を請じ迎える事)したことによりはじまる。当時、深大寺新田は、尾張家鷹狩場(江戸より5里~10里の間・1里=約4km)であり、鳥獣の害や災難よけの為、故郷の深大寺・多門院の山伏(密教の行者)より御嶽大権現の木札を頂いて、新田鎮護の神として祀ったと言う。
その後、現在の鶏鳴幼稚園の南側に権現様として祀られていた。約6坪位の祠であった。明治になって神仏分離令により、御嶽神社と改称された。
昭和3年、昭和天皇大典記念に村中の寄付で念願の社が出来た。旧社殿である。農村疲弊どん底の時代で、5円・10円は大変な出費てあったと聞く。昭和18年、敷地100坪であったものを、特社に認められるために250坪に村中で買い足した。
御嶽神社は、深大寺新田の開から現在まで、住民とともに歩み、住民を護り、真に産土神として崇敬されてきたのてある。
平成7年老朽化のため、460名の氏子崇敬者のご芳志により改築、現在の姿となった。
手成10年 文責 御嶽神社総代表 井上五郎
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御祭神は、御嶽大神。配祀神として、倉稲魂神。
現在は小金井市にある八重垣稲荷神社の兼務社となっているようです。
最寄駅は、JR中央本線・西武多摩川線「武蔵境」駅、あるいは西武多摩川線「新小金井」駅。どちらからも、徒歩だと約15〜20分ほどでしょうか。

神社外観。

正面から。

鳥居の扁額。


拝殿。
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御由緒板。
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MAP
東京都三鷹市深大寺1丁目14−1









