日吉八王子神社
2019.07.28[ 神社 ]
八王子十五宿の祈願所として祀られてきた「日吉八王子神社」。
940年(天慶3年)の創建と伝えられています。神社頒布のパンフレット「日吉八王子神社由緒」には、以下のように記されています。
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日吉八王子神社の創遠は、天慶3年(940年、平安時代中期)で、一尺一寸の戴冠立像「國狭槌尊(日吉大社 山王七社の第四社である八王子宮の御祭神で土地の神)像」を祀っている。
成立ちは、天正2年(1574年)初夏、滝山蔵王宮の別当であった大阿闇梨法印の天神坊高盛は北条氏照の命を受け、滋買限大津市の日吉山王七社中の八王子権現(國狭槌尊と同神)を八王子城に迎えて奉斎し、氏照はこの社号を日吉山王と称し、八王子城の祈顧所とし、山根の総鎮守とした。しかし、天正18年(1590年)6月八王子城の落城に伴い、八王子権現は一時中絶したが、文禄2年(1593年)、御陣貝役(城で陣触れの法煤貝を吹く役)を務めていた法印の嶋之坊悛盛(本山派修験)は徳川家康から除地を得て文禄4年(1595年)、岨之坊宿(日吉町)にあった社詞を再興し、八王子城の八王子権現を勧請し、日吉山王八王子明神社と祢した。これにより由井領山根九万石、七十五ケ村の総鎮守となり、八王子拾五組宿の祈願所にもなった。寛文7年(1667年)5月、代官の高室四郎左衛門、手代の小山次郎兵衛、桑原六太夫、松村六郎左衛門、及び八王子山根横山惣町により社殿が再建された。この他、明治2年(1869年)、同35年(1902年) 、昭和16年(1941年)にも社殿の再建・改癌が行われている。その後社名は明治維新の神仏分離により、日吉八王子神社となった。また、八王子の地名は、八王子権現を奉ったこの神社から起こったと伝えられる。
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「八王子権現」に関する記述、「八幡八雲神社」にも似たような(?)ご由緒が語られています。御朱印をいただく際に神社の方にお伺いしたところ、「お互い否定せず、どちらもそれぞれに伝えられている話として、後世に残す」というスタンスとのこと。そうですよね、どちらも大切にお祀りされている今、わざわざ真偽を明らかにしなければならない事柄ではないと思います。
現在の御祭神は、國狹槌尊(くにさづちのみこと)・大山咋尊・八王子八柱神・素盞嗚尊。
最寄駅は、JR中央線「西八王子」駅。徒歩10分ほど。
鳥居。
境内社の稲荷社。
「延命子育地蔵尊」。もともと八王子城に祀られていたものを、嶋之坊悛盛が落城の際に持ち出し、この地に安置したと伝えられています。
「あゆ塚」。江戸時代、浅川で採れた鮎を幕府に献上していたことに因み、1957年(昭和32年)に建てられたもの。