五十稲荷神社(千代田区神田小川町)

2021.10.16[ 神社 ]

五十稲荷神社(千代田区神田小川町)

江戸時代には下野足利藩戸田家の屋敷神だったお稲荷さま 五十稲荷神社(千代田区神田小川町)

五・十日に縁日が立っていたことから親しみを込めて『五十様』と呼ばれるようになった「五十稲荷神社(千代田区神田小川町)」。

創建年代は不明ですが、伏見稲荷神社より御分霊を勧請し創建され、慶長年間(1596〜1615年)には既に鎮座していたと伝わっています。江戸時代中期以降は戸田長門守の庭内社となり、『栄寿稲荷大明神』として祀られていました。現在も正式名称は「栄寿稲荷神社」なのですが、俗称「五十(ごとう)稲荷神社」の方が有名なようです。

神社頒布の「五十稲荷神社由緒」には、以下のように記されています。

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当社は、創祀の時代は詳らかではありませんが、社伝によりますと、徳川時代(江戸参勤交代の行われた頃)慶長の頃(西暦千六百年)、既にこの地に鎮座されており、京都伏見稲荷神社より御霊を奉戴、安産守護神として徳川家からも信仰され厚く崇敬せられたと伝えられております。
くだって正徳の頃(西暦千七百年)戸田長門守がこの地を拝領し、邸をかまえるにあたり当社地もその邸内に入る事になりました。戸田家に於いてはこの地の鎮守として奉祀致す事となり、領地足利市雪輪町旧御陣屋大門に奉斎する「稲荷大神」(現・栄富稲荷神社)をも合祀して、『栄寿(えいじゅ)稲荷大明神』と崇め奉り、代々承継ぎ伝えて祭祀を修め、崇敬の誠を尽くされたのであります。
戸田家は足利領に於いて織物市を開くのに、五・十の日を以てする慣わしでありまして、江戸邸に於てもその繁栄を祈願する為に月次の祭事を五・十の日に執り行い、月々の祭日・初午祭には門戸を開放し、諸人の参詣を許したのでありました。明治になりましてからは、この地を町屋とし、ここに居住する数十名の借地人ができました。同時に借地人は崇敬者となり、当神社を御守護しておりました。町内崇敬者は総意をもって願い出て、明治五年に公認の神社として列格したのであります。慣わしにより、五・十の日には遠近よりの参詣者があり、後にはこの日に縁日市が立つようになりました。五十稲荷神社の正式の社名は、『栄寿稲荷神社』と称しますが、前述の通り毎月立ちます縁日の『五の日』と『十の日』とに由来し、『五十様の縁日』と呼ばれ、都内でも有名なものとなりましたので、後に俗に『五十稲荷神社』と呼ばれるようになり、今ではそれが社号のようなものになっている誠に由緒ある神社であります。
明治・大正・昭和と三代にわたり毎月五日・十日・十五日・二十日・二十五日・三十日には縁日がたち、非常に賑わいを見せ、土地の発展にも大いに寄与いたしてまいりました。この賑わいは、明治三十二年発行の『風俗画像増刊 東京名所図絵 神田区之部』の中に、当時隣にあった映画館『南明館』とともに描かれております。平成の代になり、縁日こそ立つことはなくなりましたが、都心の中心地に鎮座する神社として、人々に心の安らぎを与え、地域との交流を図る役割を担うものとなっています。
漫才師の内海桂子師匠が、幼い頃に近所の蕎麦屋「更科」に丁稚奉公していた時に、『五十様の縁日』によく来られたと伺っております。

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御祭神は、倉稲魂命。

最寄駅は、東京メトロ千代田線「新お茶の水」駅・都営新宿線「小川町」駅。あるいは各線「神保町」駅。どちらからも徒歩約5分ほど。

五十稲荷神社(千代田区神田小川町)写真

表通り沿いにあるビルの脇を入っていくと、鳥居が見えます。

五十稲荷神社(千代田区神田小川町)写真

正面から。左に見えるのは社務所。

五十稲荷神社(千代田区神田小川町)写真

社殿。今年改修が終わり、還座したそう。

五十稲荷神社(千代田区神田小川町)写真

社殿前のお狐様。

五十稲荷神社(千代田区神田小川町)写真

獅子山ならぬ「狐山」。

五十稲荷神社(千代田区神田小川町)写真

MAP

東京都千代田区神田小川町3丁目9−1

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