岩亀稲荷
2020.11.18[ 神社 ]
港崎遊郭・岩亀楼の遊女の静養寮にあったお稲荷さまが今に残る「岩亀稲荷」。
横浜開港直後の横浜に、外国人向けに設けられた遊郭「港崎遊郭」。この遊郭の建設を行い、遊郭一の規模を誇った「岩亀楼」の遊女が、病気療養のために住んでいた寮があった場所に祀られていたお稲荷さまが起源と伝わっています。
岩亀稲荷講による栞「岩亀稲荷と岩亀横丁の由来」には、以下のように記されています。
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嘉永六年(一八五三年)ペリー提督率いる黒船四隻が浦賀沖に来航、徳川幕府はパニックに陥り、攘夷か開国か二者択一を迫られた。
ときの大老、井伊掃部頭直弼は勅許を得ずして日米修好通商条約に調印(安政五年=一八五八年)し、横浜は翌、安政六年(一八五九年)に開港した。
開港当時の横浜の歓楽街は港崎町(横浜スタジアム辺りで隣接する日本庭園に岩亀楼と刻まれた石灯篭が保存されている)から高島町に移り一、二を争う大楼岩亀楼があった、三層櫓式の楼閣が偉大さを誇り、夜目にも美しく、人々の話題となった。当主は佐吉といって埼玉県岩槻市の人で、その音読みで「がんき」と呼ばれていた。
この岩亀楼一番の売れっ子、喜遊(亀遊説もある)大夫がペリー艦隊の軍人に言い寄られたが、これを拒み「露をだにいとふ倭(ヤマト)の女郎花(オミナエシ)ふるあめりかに袖はぬらさじ」と有名な辞世を残して自害した。この句から幕末の遊女気質が十分伺える。
遊女達が病に倒れた時、静養する寮が岩亀横丁にあり、信仰していたお稲荷様が岩亀楼の寮内に在ったので岩亀稲荷と呼ばれ現在も受け継がれている。このお稲荷様にお願いをすると必ず、そのご婦人の病いがなおると言い伝えられ、毎年五月二十五日には例祭が営まれている。
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喜遊の逸話は事実ではないと云われています(自殺は事実ですが、喜遊は当時読み書きはできなかったそう)が、当時の世相を反映しているのでしょう。この逸話は有吉佐和子により「ふるあめりかに袖はぬらさじ」という題名で戯曲化され、1972年に文学座によって上演されました。
なお、港崎遊郭はその後数度の移転の後、現在の真金町に移転、「永真遊郭街」として戦後まで続くこととなります。
最寄駅は、横浜市営地下鉄ブルーライン「高島町」駅。徒歩4・5分ほど。京浜急行本線「戸部」駅、あるいは各線「桜木町」駅からも徒歩圏です。
訪れた際は残念ながら扉が閉まっていました。
稲荷前の道を少しだけ東側に行ったところに、案内板がありました。