徒然草第百十五段石碑
2022.03.21[ 史跡・公園等 ]
この地の名を記した最も古い書物『徒然草』の一節が刻まれた「徒然草第百十五段石碑」。
鎌倉時代末期〜室町時代初期頃に書かれたとされる古典『徒然草』。その中の一節に、この地「宿河原」の地名があるということ、またこの地で古くから念仏供養が行われてきたということから、地元の町内会によって建立されたのだそう。
大きな石碑には、『徒然草』第百十五段の内容が記されています。
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宿河原といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来たるぼろぼろの、「もしこの御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、ここに候ふ。かくのたまふは、誰そ」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。己れが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゆしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。こゝにて対面し奉らば、道場を汚し侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづ方をもみつぎ給ふな。あまたのわづらひにならば、仏事の妨げに侍るべし」と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死ににけり。
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現代語訳は、「徒然草 (吉田兼好著・吾妻利秋訳)」が参考になるかと思います。
その脇にある小さな石碑には、以下のように記されています。
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この石碑に刻まれている物語は、我が国古典の代表的な随筆作品といわれる『徒然草』の第百十五段である。「宿河原といふ所にて…」という書き出しではじまるこの物語では、ぼろぼろと称される遁世者が、自分の師の敵討ちをする話である。さて冒頭の「宿河原」の地名であるが、一説では川崎市多摩区宿河原の地とされる。中世において「宿」は河川の渡河地点など交通の要衝地に発生し、市が開かれ人々が集住するなど都市的な景観を呈していた。さらに「宿」は宗教者たちが道場や寺院を建て、教線を拡大する拠点でもあった。この話の中でも、ぼろぼろが集まって極楽往生のために念仏を唱えている様子が語られている。
さてここ宿河原には、現在は下綱会館となっている地に阿弥陀堂があったといわれる。また元は長尾山の中腹にあったものを移築したとも伝えられている。そして会館には、阿弥陀如来像が安置され念仏供養が行なわれている。
この石碑は、宿河原の地名を記したと考えられる最古の書物である『徒然草』の物語を刻み、また古くからあった念仏供養の姿を後世に伝えるため、宿河原町会によって建立された。土地の歴史の一つとして、末来にわたって伝えられていくことを願う次第である。
川崎市市民ミュージアム学芸員 望月一樹 平成十五年七月吉日
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最寄駅は、JR南武線「久地」駅。徒歩約4・5分ほど。東名高速道路の高架下にあります。
概観。
説明文の刻まれた石碑。
石碑の脇からの二ヶ領用水の眺め。
MAP
神奈川県川崎市多摩区宿河原6丁目17