土佐藩下屋敷跡

2020.03.22[ 史跡・公園等 ]

土佐藩下屋敷跡

土佐藩山内家の江戸下屋敷のひとつ 土佐藩下屋敷跡

安政の大獄の後に山内豊信(山内容堂)が蟄居していたと伝わる「土佐藩下屋敷跡」。

1658年にこの地を拝領し、以来明治維新まで土佐藩山内家の下屋敷がありました。その広さは16800坪。ピンときませんが、東京ドームが約15000坪と言いますから、それよりも広かったんですね。

第一京浜沿い・浜川中学校の校庭の片隅にある「旧・土佐高知藩山内家下屋敷跡」と書かれた案内板には、以下のように記されています。

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立会川沿いの高知藩山内家の下屋敷1万6千8百坪余と抱屋敷(揚場869坪)は、東海道往還を挟んで東西に位置し、抱屋敷は河口に位置していた。ともに万治元年(1658)に拝領、囲込によって取得したもので、表門通りで結ばれていた。下屋敷は大井村の他に、木挽町築地(現・中央区築地)にもあった。
第15代藩主山内豊信(容堂)は、松平慶永、島津斉彬、伊達宗城らとともに、国政の方向について議論建策したので、「幕末の四賢候」と称されている。安政の大獄に関連して隠居・謹慎を命ぜられ、蟄居したのがこの下屋敷であった。また、河口の抱屋敷の地には、嘉永6年(1853)に砲台が造られ、浜川砲台と呼ばれていた。
安政2年(1855)頃の高知藩主山内豊信は24万2千石の家禄があり、上屋敷は鍛冶橋御門内大名小路(現・千代田区丸の内)にあった。

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明治維新後、この地には日本で最初のビール工場が造られたといいます(※ちなみにキリンビールのサイトでは、横浜にできた「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」が日本初のビール醸造所と謳っています)。これにちなみ、地元の「品川縣ビール研究会」によって企画・田沢湖ビールを運営する株式会社わらび座が製造した「品川縣麦酒」(しながわけんビール)がこの地域で販売されているそうです。結構旧東海道は歩いたのですが、この情報を知らず、、もしかしたらどこかで目にしていたのかもしれません。。

最寄駅は、京浜急行本線「立会川」駅。

案内板にある地図。薄紫の線が、当時の屋敷の範囲。中学校の大きさと比べると、その大きさがわかると思います。

第一京浜の反対側から浜川中学校を撮影。

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