俣野観音堂(横浜市戸塚区俣野町)

2023.09.02[ 史跡・公園等 ]

俣野景久の守護仏だった観音像を安置するお堂 俣野観音堂(横浜市戸塚区俣野町)

大庭景親の弟・俣野景久の守護仏だった観音像を安置したと伝わる「俣野観音堂(横浜市戸塚区俣野町)」。

創建年代は不明ですが、平安時代末期にこの地を所領していた俣野景久が守護仏として持っていた観音像を、景久死後に堂宇を建て安置したと伝わっています。

境内にある案内板『俣野五郎景久と観音堂』には、以下のように記されています。

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治承四年八月ニ十三日(一一八〇)伊豆に配流中の源頼朝が平家政権打倒のため石橋山に拳兵すると平家側の総大将として是を襲ったのは藤沢の大庭景親であったが弟俣野五郎景久は家臣長尾兄第(上杉謙信の祖)と源氏の先陣佐奈田与一を討ち取り、頼朝軍は敗走辛うじて房総に逃れた。
頼朝が源家累代の家臣、千葉一族の協力を得て勢力を恢復し十月鎌倉に人府すると大庭景親を片瀬川畔て梟首し、五郎景久を遠く京都に敗走させて石橋山の報復を遂げた。
寿永ニ年五月、俣野景久は平宗盛軍の将とし、頼朝の従弟木曽義仲の軍と加賀の篠原で対戦したが、平家の敗色濃厚で、武将の間から、いっそ源氏に鞍替えしてはとの話か出ると景久は強く反対し『武士としていさぎよく討死』の覚牾を示し、守護仏の観音像を家臣に託して母の待つ故郷、相模国俣野村に送って自らは壮烈な最期をとげた。
いま篠原には景久の戦友で共に討死した斎藤実盛の墓はあるが、景久等の墓はない。
推うに実盛はまだ三歳だった義仲が殺されるのを救けた生命の大恩人であるが、是に反し景久は徹底した反源氏の将なるが故に、その墓の建立が憚られたものに相違ない。
景久に由緒のある観音堂は、茲、鎌倉街道西の道に接してはいるが、治承の昔からこの地に建立されていたかは定かではない。

大正地区歴史散歩の会
平成四年十月吉日 建之

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最寄駅は、小田急電鉄江ノ島線「六会日大前」駅。鎌倉古道沿いにあります。

俣野観音堂(横浜市戸塚区俣野町)写真

俣野観音堂(横浜市戸塚区俣野町)写真

俣野観音堂(横浜市戸塚区俣野町)写真

MAP

神奈川県横浜市戸塚区俣野町1028

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