鍛治橋跡
2019.11.16[ 史跡・公園等 ]
「鍛冶橋御門」があったとされる場所に立つ案内板
鍛治橋跡
江戸城外郭門のひとつ「鍛冶橋御門」があったとされる場所に立つ案内板「鍛治橋跡」。
1629年(寛永6年)、東北地方の大名によって築かれました。
案内板には、以下のように記されています。
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鍛冶橋門は、1629年(寛永6年)に築造されました。門に附属する鍛冶橋は、現在の丸の内二、三丁目と中央区の八重洲六丁目を結んでいました。名称は、外堀の門外の町名が南鍛冶町(現在の中央区八重洲二丁目・京橋二丁目)であったことに由来します。また、江戸時代初期、御用絵師の狩野探幽の屋敷がありました。門内には大名屋敷が立ち並び、幕末には、津山藩(現在の岡山県)松平家、土佐藩(現在の高知県)山内家が付近に上屋敷を設けていました。
1873年(明治6年)に鍛冶橋門は桝形石垣を残して撤去されました。橋は、1876年(明治9年)にアーチ橋として再建されましたが、終戦後の瓦礫処理で外堀が埋め立てられた際に、橋も姿を消しました。
現在は「鍛冶橋架道橋」「鍛冶橋交差点」にその名前が残っています。
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呉服橋から数寄屋橋付近まで、現在「外堀通り」と呼ばれている道は江戸時代から戦後しばらくまで外濠川が流れていた場所。上記の通り戦後の瓦礫処理により埋め立てられ、1959年(昭和34年)に姿を消しました。かつての「水の都」としての江戸の風景をまた見て見たい、と常々思ってはいるのですが、さすがにここをお濠に戻すのは大変そうですよね。。
最寄駅は、JR各線「東京」駅、もしくは「有楽町」駅。
案内板は、鍛冶橋交差点の脇に設置されています。
鍛冶橋交差点。皇居(江戸城)は、左奥の方向。