保土ケ谷宿本陣跡(横浜市保土ケ谷区保土ケ谷町)

2022.07.17[ 史跡・公園等 ]

保土ケ谷宿本陣跡(横浜市保土ケ谷区保土ケ谷町)

保土ケ谷宿本陣のあった場所に造られた記念碑 保土ケ谷宿本陣跡(横浜市保土ケ谷区保土ケ谷町)

東海道五十三次・4番目の宿場にあたる「保土ケ谷宿本陣跡(横浜市保土ケ谷区保土ケ谷町)」。

1601年(慶長6年)に、徳川家康の命を受けた元小田原北条氏の家臣・苅部清兵衛が、本陣・名主・問屋の三役となって整備したのが始まりだと伝わっています。以降、1870年(明治3年)に廃止されるまで苅部家の当主が「苅部清兵衛」を名乗り三役を務めました。

保土ヶ谷区役所による案内板には、以下のように記されています。

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慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。
東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が代々つとめています。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿における有力な家で、安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。明治3年(1870年)に軽部姓に改称し、現在に至っています。
本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の3軒の脇本陣がありました。

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上記に出てくる「苅部清兵衛悦甫」は第十代当主で、吉田勘兵衛(吉田新田を開墾)、高島嘉右衛門(明治期の横浜発展に貢献・「高島易断」でも有名)とともに「横浜三名士」と言われているそうです。

ちなみに、、本陣跡、と言っても、特に何が残されているというわけではありません。「この場所がかつての保土ヶ谷宿本陣だった」というのがわかるのみです。

最寄駅は、JR横須賀線「保土ヶ谷」駅。

石碑のアップ。

今度は引きで。右に見える通りが、旧東海道。

保土ヶ谷区役所による案内板。

MAP

神奈川県横浜市保土ケ谷区保土ケ谷町1丁目

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