畠山重忠公碑
2020.12.26[ 史跡・公園等 ]
「坂東武士の鑑」と謳われた畠山重忠を偲ぶ「畠山重忠公碑」。
平家追討において活躍し、鎌倉幕府初期の有力御家人だった畠山重忠。『吾妻鏡』では「坂東武者の鑑」と謳われています。しかし頼朝死後の1205年(元久2年)、北条時政の謀略により、二俣川にて最期を遂げました。この時畠山重忠勢は約130騎、北条義時率いる追討軍は数千騎(数万騎とも)の大軍だったそうですが、鎌倉で嫡男・畠山重保が殺害されたことを知り、「潔く戦う事が武士の本懐」としてあえて戦に臨んだと云われています。
「畠山重忠公碑」は、没後750年にあたる1955年(昭和30年)に、鶴ヶ峰および埼玉県深谷市(畠山氏の根拠地)の有志により建立されたそうです。
最寄駅は、相模鉄道本線「鶴ヶ峰」駅。徒歩4・5分ほど。すぐそばには「畠山重忠公首塚」もあります。
「鶴ヶ峰駅入口」交差点の片隅にあります。
逆光でただの真っ黒な板のように写ってしまいました。。
中央やや左側に見えるのが、さかさ矢竹。「さかさ矢竹の由来」と書かれた案内板には、以下のように記されています。
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鎌倉武士の鏡 畠山重忠公は、この地で僅かの軍兵で、北條勢の大軍と戦って敗れた。公は戦死の直前に「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と、矢篦二筋を地に突きさした。やがてこの矢が自然に根付き年々二本ずつ生えて茂り続けて「さかさ矢竹」と呼ばれるようになったと伝えられる。
このさかさ矢竹も昭和四十年代の中頃までは、現在の旭区役所北東側の土手一面に繁っていたが、その後すべて消滅してしまった。
この度重忠公没後八百年にあたり、ここにさかさ矢竹を植えて再びその繁茂を期待いたします。
平成十七年六月二十二日
横浜旭ロータリークラブ
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