梶原氏一族郎党(七士)の墓(寒川町一之宮)
2024.10.17[ 史跡・公園等 ]
鎌倉幕府の初期を支えた梶原一族の墓
梶原氏一族郎党(七士)の墓(寒川町一之宮)
鎌倉幕府の初期を支えた梶原一族の墓と伝わる「梶原氏一族郎党(七士)の墓(寒川町一之宮)」。
梶原景時は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の宿老として活躍しましたが、頼朝の死後にそれまでの数々の讒言に不満を持っていた他の御家人によって連判状を出され、その後京への上洛途中に一族は討ち取られ、景時は自刃しました(梶原景時の変)。その一族の墓とも伝わるのがこちらです。
寒川町教育委員会による案内板には、以下のように記されています。
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伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓
この石造物群には次のような言い伝えがあります。正治二年(一二〇〇年)
正月、梶原景時一族郎党が一宮館を出発、上洛の途中清見関(静岡市清水区)で討死してしまったので、一宮館の留守居役であった家族、家臣らが弔ったといいます。
また、景時親子が討死してから、しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、世情が変わったのを見て鎌倉に梶原氏の復権、所領安堵を願い出たが許されず、七士はその場で自害し、それを祀ったものという説もあります。
なお、後ろの水路は当時の内堀の名残ともいわれています。
平成二十一年三月
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最寄駅は、JR相模線「寒川」駅。
大山街道沿いにある入口。この案内板がなければ、ちょっと入りにくい場所かもしれません。
『梶原氏一族郎党(七士)の墓』。
寒川町教育委員会による案内板。
『箙の梅』碑。梶原景時の嫡男・梶原景季は、能や歌舞伎の演目『箙の梅』(えびらのうめ)の話のモデルでもあります。
MAP
神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目7−1