諏訪神社(調布市深大寺東町)
2024.08.08[ 神社 ]
古くから旧深大寺村野ヶ谷にお祀りされていた「諏訪神社(調布市深大寺東町)」。
創建年代は不明ですが、『新編武蔵風土記稿』に記載のあることから、江戸時代後期には既に鎮座していたものと思われます。明治期に近隣の稲荷神社、御嶽神社を合祀しました。
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諏訪明神祠
小名野ヶ谷ニアリ勧請ノ年代詳ナラス本社ハ二尺四方程ノ宮作ニテ覆屋アリ拝殿二間ニ三間共ニ南向ナリ多聞院ノ持
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(『新編武蔵風土記稿』より)
御祭神は、建御名方命。合祀神として、倉稲魂命・大己貴命。
現在は青渭神社の兼務社となっているようです。
最寄駅は、京王電鉄京王線「調布」駅、あるいは中央本線「三鷹」駅。しかしどちらからも、直線距離で2km以上ありますので、徒歩だと30分以上かかると思います。
正面の鳥居。
参道の石塔群。
細長く続く参道には、鳥居がいくつかあります。
参道の狛犬。
拝殿。
境内に掲示されている『お諏訪さま』と書かれたお話。『調布ブック・クラブ』という書籍に掲載された内容だそうです。
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お諏訪さま
上村治子
ずーんと昔から、深大寺村の野ヶ谷にお諏訪さまが祭られててな。
お社の縁側には小石がたんと並んでて、その石を一つ戴いて帰り、具合の悪いとこをさすってやるべ、それでなおると新らしい石を二つばかしお返しするだよ。
その頃はそれ、お札という物がなかったから、小石がお札の代りでな。
そろそろ陽気がよくなり。茄子がとれるべ、するとどこの家でも一番始めにとれる初なりを二つ、柄を結び合わせてお供えしてな、後からきた者は先きにおいてあるのを一つ戴いてよ、これ焼いて喰えば、この一と夏はチブスやエキリなんぞの疫病にかからねえ、有難いおまじないじゃ。
「こうお参りの人が増えたじゃ、お札を作った方がいいでねえべか?」
「ご神体があるだから、それをもとにして作るべか」
皆で相談し、ご神体と深大寺村野谷という字を彫って版木を作っただ。
随分遠くの豊島郡だ橘樹郡なんぞからも、お札を貰いにきて、何しろ毎日だんご屋や駄菓子屋が境内に出店してにぎわっただもの。
それがある時、気がついてみると、ご神体も版木もみあたらねえ。皆、あおーくなっておさがししたがどこにもねえ。で、またもとのように石ころのお礼に逆もどりでな。
それが、ひょんな所から人をたて、
「ご神体と版木をお返し申したいが…」って話しかあっただ。
大きな声じゃ云えねえがよう、おら方のお取訪さまを羨ましがって、相模の国の何とかいう
お宮さんが持ってってたんだと。
そこでも始のうちは、お札がとぶように売れたけんど、そのうちに、
「どうもこの節は、おかしなことばかり、おめえの所はどうでえ?」
「おら家も病人ばかしで首が廻らねえよ、あのたたりでねきゃいいが」と、云い出す者もいて、
「もとの野ヶ谷にお帰り願った方がいいでねえか?」
と、いうことになったそうな。そりゃ神さまだって、もとの所に帰りてえべよ。
で、こっちの野ヶ谷じゃ大喜びだ、早速世話人が向うへいき、おつれする日には村の人たち皆して、新しいわらじに紋付きで境の停車場までお迎えだ。
さてお社にもどってお神酒をあげ、お札を戴いて帰ろうと版木を押してみるとな、ご神体は写ったが“深大寺村野谷”という所は切りとってあったって。
それはそうだべさあ、向うで稼ぐにゃ“深大寺村野谷”じゃ不都合だもんなあ。
そんでも、その切りとった所も一緒にもどってきたでまたもと通り、お祭や七五三の時にゃ、昔通りのお礼が貰えるようになったがよ。
でもな、この節はもうここが深大寺村でねえべ、で、またそこん所はけずって使ってるがよ。
お飯訪さまのお陰のせいで、ここら辺りはめったな事はおこらねえだよ。
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なかなか味のあるお話ですね。
MAP
東京都調布市深大寺東町8丁目1−3