中原熊野神社(横浜市磯子区中原)
2021.08.19[ 神社 ]
源頼朝による創建の逸話が伝わる「中原熊野神社(横浜市磯子区中原)」。
鎌倉・山崎の泉蔵院僧・知覚が、源頼朝の命により熊野権現に参籠、御分霊を舟に乗せたところ、中原の海岸に流れ着いたことから、この地に熊野社を創建したのが始まりと伝わっています。
境内に掲げられている「熊野神社縁起」には、以下のように記されています。
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当社の由来は建久三年(西暦一一九二年)征夷大将軍になった源頼朝が、鎌倉の山崎にあった泉蔵院の僧 真締知覚法印に治国安民の祈祷を命じたことに遡る。頼朝の命を受けた知覚法印は、我が国第一の霊場とされて居た紀州熊野に参籠して幣帛を捧げ、三所権現の御分霊を樟の舟に乗せ、祈りを込めて海に流した。
樟舟は御神意のままに中原の海岸に流れ着き、この事が将軍に伝わり、頼朝は御神慮の有難さを感じて、近くの地に神殿を建てるよう知覚法印に命じた。
知覚法印は、東に海を望む景勝の当地を選び山上に熊野三所権現社を祀り、山裾に紀州山桐谷寺を建立すべく同年五月六日に着工し十一月十五日に完成させた。
後に桐谷寺は山号を大霊山泉蔵院と改め、熊野三所権現社の別当として当社に奉仕し、国家安泰、万民和楽の祈願を続けて来た。
その間文禄三年九月(一五九四年)社殿再建、正徳五年(一七一五年)、社殿は改築され規模は九尺に二間であった。
その後安政四年(一八五七年)にも再度改築が施された。
明治初年の神仏分離令により社名を熊野神社と改め、法印は神職となり約七百年間続いた泉蔵院は廃寺となった。
明治四十二年神社統合令により村内の中原明神・諏訪神社の二社が合祀された。
大正四年社殿の改築が行われ本殿は二間に一間半の神明造り、幣殿は二間に一間半、拝殿は二間半に二間半向拝付銅葺の建物となった。
昭和六十一年三十五代宮司杉原章夫の折、氏子・崇敬者より社殿新築の議が起こり、氏子総代寺田勝彦氏が建築委員長となり、大同建設株式会社岡田文夫氏・大工棟梁両角賢治氏にて施工され、昭和六十二年(一九八七年)十二月に現社殿が完成した。本殿二間に一間二五神明造り、幣殿二間に一間七五、拝殿三間に二間唐破風付銅葺きである。
平成四年(一九九二年)には創建八百年の奉祝祭が執り行われた。
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現在の御祭神は、家津美御子大神・伊邪那美大神・事解之男神・伊邪那岐大神・速玉之大神・天照皇大神・建御名方命・日本武尊。
最寄駅は、京浜急行電鉄本線「杉田」駅。
中原本道にある「熊野神社参道」と刻まれた石柱。京浜急行の線路の下をくぐって、神社へと向かいます。
こちらが神社への入り口。鳥居が見えます。
鳥居をくぐると、右手に社務所が。その先に拝殿へと向かう石段があります。
拝殿。
拝殿前の狛犬。
拝殿横にある境内社。
こちらは参道の途中にある境内社の泉蔵社。
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神奈川県横浜市磯子区中原4丁目5−17