縁の辯財天
2021.01.29[ 神社 ]
高野山真言宗の寺院・摩尼山延壽院徳恩寺の境内に鎮座する弁天さま「縁の辯財天」。
江戸時代の元禄年間に、旗本・柳沢信尹により寄進されたのが始まりと伝わっています。
境内にあるお寺の御由緒には、以下のように記されています。
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徳恩寺は元々、延命院という草庵が十世紀末に結ばれていましたが、戦乱や自然災害により衰微し、廃寺寸前であったところ、建武二年(一三三五)、等海律師(一三七三寂)の手によって、高野山真言宗摩尼山延壽院徳恩寺として開創されました。
律師は、金沢文庫称名寺の実真阿闍梨の弟子でしたが、小机三会寺の中興開山と仰がれ、当山を御開創の後に、柿生・王禅寺で示寂された名僧であり、以来、徳恩寺は隆昌を極め、江戸中期には中本寺として近隣の真言宗寺院十三ヶ寺を統べる法談所でもありました。
殊に元禄十四年(一七〇一)には、江戸幕府の名老中であった柳沢吉保の一族である恩田郷を治めていた、柳沢信尹公より、鉄眼禅師の「大般若経六百巻」及び大名駕籠二丁のご寄進、また奥方の念持佛である弁財天一躰及び弁天社を寄進建立されるなど、当山への帰依信仰にあつく、多大な貢献をされ、さらに信尹公の具申により、慶安二年(一六四九)には寺領七石の朱印状を賜りました。
本尊虚空蔵菩薩は、室町期の作と伝えられ、特に毎年十一月の十三詣・七五三の参詣には、ご祈祷をうける幼児や児童で盛況を極め、横浜虚空蔵として地域の人々に親しまれています。
寺宝の金剛薩(土垂)画軸は、当山第十九世開演僧正が、元禄年中に高野山より請来されたお大師さま直筆と伝わり、文政四年(一八二一)に檀信徒の寄附で補修されたものであります。
日本画壇で活躍される入江正己画伯の釈尊降誕図、江戸初期に描かれた涅槃図などの寺宝のほか、昭和四十三年十一月に本堂大改修工事を竣功の折に、事業を記念して、故鈴木憲一・小江ご夫妻にご寄進いただいた、児島一鶏・月岡英貴・蓮尾達雄・若林卓・入江正己・小島昇がはくによって描かれた堂内の襖絵は、訪れる檀信徒の目を楽しませています。
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お詣りしたときはちょうど年始の準備をしていて、弁財天の前に仮説の階段が設置されており、残念ながら近くに行くことはできませんでした。。
最寄駅は、東急こどもの国線「恩田」駅。
こんな感じで、そばに行くことができませんでした。。
望遠で寄ってみましたが。。
こちらが徳恩寺。