天神山五社大明神
2020.07.09[ 神社 ]
最後まで新田義興に付き従いこの地で斃れた五武将を祀る「天神山五社大明神」。
「天神山五社大明神由来」と書かれた案内板には、以下のように記されています。
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御祭神である、「五社大明神」の主君新田義興公は、新田義貞公の第二子で幼名を徳寿丸と申し、元服の折には後醍醐天皇より「義貞の家を興すべき人なり」として『義興』という名を賜り[従五位左兵衛佐]に任ぜられました。ところが足利尊氏が謀反を起し、父義貞公亡き後、義興公はよく其の意志を継がれ新田一族を率いて吉野朝(南朝)恢復に盡力をされました。そして武蔵野合戦等を始め各地に奮戦され、終始一貫して忠義を盡くされましたが・・
正平十三年(一三五八)十月十日足利基氏の執事である畠山国清、江戸遠江守らの卑怯なる謀略により、多摩川の「矢口の渡」で壮烈なる最後を遂げられました。【新田神社由緒より】
終始一貫して義興公に忠義を尽くし戦った武将は何人か定かではないが、一部文献によると
◎谷口の十寄神社に祭られている十武将(谷口二、一七)
◎妙蓮塚三体地蔵の三武将(下丸子一、一)
◎五社大明神の五武将(東糀谷一、十)
が言い伝えられ、手厚く祭られている。
五社大明神は多摩川の『矢口の渡』の後より足利軍の激しい追跡をこの地に逃れ、力つき自決したものと思われる。
その当時この地に(こんもりとした貝塚)天神山と呼ばれていた(現東糀谷一、十)この天神山の貝塚より出土した五体の遺骨と付近より出た武器により詳らかでは無いが前述、新田義興公の五武将とし当時の人々が五つの墓柱を立てたのが始まりで手厚く弔っていた・・・・・・
明治中期になり貝塚が平地にされてその後現在の石仏と、なり付近の方々により社殿も造営され神明作りの赤い鳥居も奉納され五社大明神と称され信仰され今日に至。
入り口に薬王堂地の石碑があり昔(石井理家)薬師堂の跡に建立されたもので永く記念するため【糀谷今昔】より一部索引した
『五社大明神』霊験は、あらたかです。
人々は仲良く笑顔で接すること 無事息災 五穀豊穣
平成三十一年一月吉日
五社大明神保持の会
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最寄駅は、京浜急行空港線「大鳥居」駅。徒歩15分ほど。