姥ヶ森弁財天(川崎市川崎区鋼管通)

2024.10.09[ 神社 ]

姥ヶ森弁財天(川崎市川崎区鋼管通)

「姥ヶ森」の伝承を今に伝える小祠 姥ヶ森弁財天(川崎市川崎区鋼管通)

かつての地名・姥ヶ森を今に伝える「姥ヶ森弁財天(川崎市川崎区鋼管通)」。

創建年代は不明ですが、ここにはかつて新田義貞の家臣だった亘新左衛門源早勝の隠居所と伝わる潰れ屋敷と古井戸と祠があったと云い、この祠を調べたところ弁財天だったそう。明治期の小神社合祀令によって新田神社に遷されたのですが、地元の人々によって現在も弁財天をお祀りしているのだそうです。

『姥ヶ森という地名の発祥』という案内板には、以下のように記されています。

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由来を探求するには、渡田二丁目は新田神社と深い関係にあり鎌倉時代からの領主で、亘新左衛門源早勝(新田義貞公の家臣)の土地で、ごく最近までは姥ヶ森町内会館は新田神社の土地であった(区画整理で購入)。
明治初期の頃、この辺は、小高い丘で裾は松林で沖を通る船は、松林を目標にして漁に出たと云う。そこに新左衛門の隠居所と見られる潰れ屋敷に古井戸と神様を祀ったらしい祠があった。
村人の話題が新田神社の土地だから稲毛神社の神官に観てもらおうと云うことになり、観てもらったところ、意外も意外、霊験あらたかな「インド」の女神で弁舌、才知、音楽に長じて無量の福徳を与える弁財天(日本でも七福神の一つ)であることが判った。この儘、潰れ屋敷に野晒にも出来ず、神社の氏子総代と相談の末、新田神社の御守本尊として移転することが決まりお堂を建立し、明治十二年頃移転した。その時は無銘の弁財天であったが、稲毛神社の神官の粋な計らいで姥が住んでいた森だから姥ヶ森弁財天と命名されて現在に至っている。又、古井戸の御神水は、毎年八月二日に汲み上げ新田神社に奉納し稲毛神社の大御神興が新田神社に渡御の際、お清めの御神水として御神興におかけする。これを怠ると大御神興は暴れ狂うと云う伝説があるとも云われているが本当にあったと云うことも聞いている。

平成十一年五月吉日

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また『かわさき区の宝物・姥ヶ森弁財天と井戸』というPDFには、以下のようなエピソードが載っています。

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■「姥ヶ森の井戸」には二つの言い伝えがある。一つは、『昔一人の老婆が住んでいて篤く山王社を信仰し、毎朝、森の池に湧く清水を汲み神前に供えていた。老婆は死後「姥が森弁財天」として祀られ、山王社の御旅所になった。』というもの。もう一つは、『海浜に姥が森という弁天様を祀る森があり、新田義貞公の寄進した馬場と御手洗池があった。ある日、一人の乳母が山王様の神様の童子を連れて馬競べを見ていたところ、ふとしたことから童子が転んで片眼を失い、それがもとで死んでしまった。その後、森や池にすむ蛙や蛇、魚がみな片眼になってしまった。』というものである。この姥ヶ森にあったとされる御手洗池の跡である、と今も伝えられているのが姥ヶ森の井戸である。
■川崎山王祭の大御輿が新田神社の姥ヶ森弁財天の前に着くと、姥ヶ森町内会の役員が井戸から汲んだ御神水が神前に供えられ、神輿の渡御の無事が祈願される。

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(以上、かわさき区の宝物・姥ヶ森弁財天と井戸』より一部抜粋)

最寄駅は、JR南武支線・鶴見線「浜川崎」駅。

外観。左側にあるのが、町内会館。

社殿。

案内板。

『姥ヶ森の井戸』。

MAP

神奈川県川崎市川崎区鋼管通3丁目3−13

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