太子堂八幡神社(世田谷区太子堂)
2021.12.02[ 神社 ]
江戸時代には太子堂村の鎮守として祀られていた「太子堂八幡神社(世田谷区太子堂)」。
創建年代は不明ですが、一説には源頼義・義家親子が奥州征伐に向かう際にこちらの神社で戦勝祈願をしたと伝えられています。
神社頒布の栞には、設立について以下のように記されています。
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今から千年ほどの昔平安時代の終わり頃、陸奥(宮城・岩手県)の豪族安倍氏の反乱(前九年の役)を源頼義・義家親子が征伐におもむく途中、鎌倉道に面したこの神社に戦勝を祈願し、酒宴をもよおし休憩をしたと伝えられています。
正確な文献の資料はありませんが、このことから永承六年(1051年)以前には、この地の守り神としてこの神社の歴史が始まっていたと考えられます。
ご祭神は、当初から八幡神(第十五代応神天皇=誉田別尊)をこの地の鎮守(地域の守り神)としていたか分かりませんが、源氏の氏神となった八幡神が、源氏の関東での領地拡大に伴い、しだいにその土地の守り神として祀られるようになりました。
源頼朝による幕府(軍事政権)政治が鎌倉に始まり、更に室町時代には世田谷を始め近隣の土地を領地とした吉良氏や、江戸幕府を開いた徳川氏の源氏一門の八幡神への信仰の影響もあって、世田谷には八幡神社が多くあります。(五十社中十二社)。
当神社も円泉寺の記録によれば、文禄年間(西暦一五九二〜六)に八幡神社として建立されたとあります。豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし、全国統一をした後の頃になりますが、北条氏の家臣の一団がこの土地に移り、草分けとして開拓を進めた頃のことです。おそらくその頃に社殿が神社らしく整えられたものと思います。
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「源頼義・義家が奥州征伐の際に戦勝祈願をした」と伝わる神社は、南武蔵には非常に多く存在しますが、こちらもそのうちの一つ。
神社の正式名称は「八幡神社」ですが、かつての村名でもあり、現在の町名でもある「太子堂」をつけた形で呼ばれています。太子堂村は、神社の別当を務めていた円泉寺に弘法大師作と伝わる聖徳太子像を祀る「太子堂」があることから名付けられたそう。
御祭神は、誉田別尊。
最寄駅は、東急世田谷線「西太子堂」駅。東急田園都市線「三軒茶屋」駅からも、徒歩圏です。
正面の鳥居。
拝殿。
拝殿前の狛犬。
境内社の稲荷社。
鳥居前にある弁天社。
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MAP
東京都世田谷区太子堂5丁目23−5