宝玉稲荷大明神

2019.12.01[ 神社 ]

宝玉稲荷大明神

滝の川の洪水によってこの地に運ばれてきた御神体を祀る小祠 宝玉稲荷大明神

滝の川の洪水によってこの地に運ばれてきた御神体を祀ったのが起源と伝わる「宝玉稲荷大明神」。

江戸時代末期の創建だそう。案内板には、以下のように記されています。

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宝玉稲荷大明神
由来と名称

江戸末期の頃、滝の川の洪水によって 上流から流れついた御神体を石川氏を中心にして地元の人たちがお祀りしたと言い伝えられている。
当時この地は宝玉山(現在の栗田谷)と呼ばれ 横浜開港当時イギリス領事館に使われた日蓮宗の古刹、浄瀧寺の土地に開き、以来講中の方々によって守られている。
毎月、一、十五日の稲荷講中と 遠方または地元住民の力添の信仰に拠って守り伝えられ今日に至っている。
二月の初午詣は朱色の鳥居や幟など特徴ある形態を示している。
農業神、漁業神、託宣神、憑依神、商業神(商売繁盛の神)、歌舞伎、音曲の神、子宝の神として幅広い性格を有し民衆の信仰を代表する一つである。
稲荷の起源は稲荷信仰の総本社とも称すべき伏見稲荷大社の縁起よると七一一年(和銅四年)二月の初午の創始と伝える「山城国風土記」によれば秦公伊呂具(はたのきみいろこ)が餅を的に矢を射ったところ餅は白鳥になり降り立った山の峰に稲が生え、神として奉られ「イネナリ」(伊禰奈利)から稲荷の社名になったと言い伝えられている。

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滝の川は、現在の片倉町にある「片倉うさぎやま公園」から神奈川宿を通り海に注いでいた川。現在は下流域を残しほぼ暗渠化されていますが、戦後に開発された「三ツ沢」エリアは、この川によってできた谷地(かつては水田地帯)を整地したもの。確かに、横浜新道を歩くと地形の名残を確認することができます。

最寄駅は、東急東横線「反町」。徒歩3・4分ほど。

暗渠化された滝の川沿いにある案内板。

この参道を進んでいきます。

中ほどまで進むと、赤い幟のようなものが見えてきます。

この「幟のようなもの」実は看板です。

社殿。

社殿の扁額。

宝玉稲荷大明神。 #theta360 – Spherical Image – RICOH THETA

RICOH THETA SCによる360度画像(2019.9撮影)。

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