深見神社

2019.03.21[ 神社 ]

深見神社

5世紀創建と伝わる「延喜式内相模国十三社」のひとつ 深見神社

478年創祀と伝わる「延喜式内相模国十三社」のひとつ「深見神社」。

『総国風土記』には「深見神社或深水・深海卜作ル 雄畧天皇二十二年三月所祭闇龗也」と記載されているそうです。「雄畧天皇二十二年」は、西暦にすると478年。創建から1500年以上の歴史のある古社です。

神社御縁起によると「武甕槌神東国鎮撫のために常陸鹿島に在られた時舟師を率いてここに進軍され伊弉諾神の御子、倉稲魂神・闇龗神の二神をして深海を治めさせられた 両神は深海を治めて美田を拓き土人を撫して郷を開かれた」となっているのですが、どうやらこれは後代に造られたお話のよう。

後代、というのは江戸時代。この地を治めたのは甲斐武田家の家臣だった坂本氏。武田氏滅亡後に徳川家康の家臣となり、小田原平定後に常陸国・鹿島と相模国・深見(当地)を所領することになり、江戸時代初期に坂本小左衛門重安が鹿島神宮の御祭神である武甕槌神を深見神社の御祭神に「すり替え」、神社を「鹿島社」としたことに起因して造られたというのが真相のようです。

この坂本家、坂本重治の時代に寺社奉行に就き旗本から大名となり、この地に「深見藩」を立藩するのですが、その後職務の怠慢を咎められ、わずか5年ほどで「深見藩」は消滅します。しかしその後も神社との関係は良好だったようで、「神社御縁起」はそのまま現在まで伝えられています。

江戸時代に御祭神から「追い落とされた」闇龗神ですが、江戸期からつい最近まで境内社である御倉稲荷神社に祀られていましたが、2012年に改めて深見神社に合祀されました。

また明治期に深見村内にあった諏訪神社を合祀しており、これにより「武甕槌神」と「建御名方神」が合祀されるという、珍しい(?)現象が起きています。

という経緯から、現在の御祭神は、闇龗神・武甕槌神・建御名方神(神社頒布の御由緒の順)。

1876年(明治9年)に近隣の火災が延焼し社殿が焼失した後(古文書等も全て焼失)、社殿が再建されたのは1941年(昭和16年)。深見村の集落にいまだに多くの神社が残っていることや「鹿島社」への変更の経緯から、延喜式内社でありながら一時期は領民に慕われていなかったのかも?と思ってしまうのですが。。とはいえ古くは渋谷荘司だった渋谷重国や重国に助けられた佐々木秀義、また太田道灌など、多くの武将が戦勝を祈願した、この地域で最も古い神社であることに変わりはありません。

ちなみにこの地の名称「深見」は、『和名抄』に「布加美郷」と記されている古くから伝わる呼び名で、太古(どのくらい昔のことを指すのかは不明ですが)この一帯は相模湾が湾入していて、古くは「深海」あるいは「深水」(どちらも読みはふかみですね)として相模原の東岸一帯のことを指していたと云われています。神社がある場所は境川によって削られなかった台地上に当たります。

最寄駅は、小田急江ノ島線・相模鉄道本線「大和」駅。徒歩10分ほど。

西向きに建つ鳥居。大和駅から大通りを歩いてくると、最初に目にするのはこちらの鳥居です。

鳥居をくぐって少し進むと、左手に社殿が見えます。

拝殿。

拝殿に掲げられた扁額。

境内社の御倉稲荷神社(おくら稲荷)。

境内社の靖國社。旧日本軍厚木海軍飛行場に祀られていた「厚木空神社」を戦後の1951年(昭和26年)にこの地に遷座したもの。

富澤稲荷神社。この地で製糸会社を営んでいた富沢家所縁の稲荷社と伝えられています。神社の敷地内だとは思うのですが、とっても微妙な場所(駐車場の脇)に鎮座しています。

「相模国十三座之内深見神社」と刻まれた、江戸時代に造られた社標。

東側の鳥居。かつてはこちらが「正面」だったとも云われています。

なぜか?北側に建つ「一の鳥居」。

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