畠山重忠公遺烈碑(横浜市旭区万騎が原)

2023.06.24[ 史跡・公園等 ]

畠山重忠の遺烈を伝えるために建立された石碑 畠山重忠公遺烈碑(横浜市旭区万騎が原)

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将・畠山重忠の遺烈を伝えるために建立された「畠山重忠公遺烈碑(横浜市旭区万騎が原)」。地元の有志の方々により1892年(明治25年)に建立されたそうです。

旭区による案内板には、以下のように記されています。

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平安時代も終盤、保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)などが起こり院政に陰りが見え貴族の世も不安定になって、終焉間近に差し掛かると武家政権が台頭してくる。血を分けた親子兄弟でも容赦なく殺戮し強いものが一番との世に移行しつつあった。そのような時代にただ一人「畠山重忠公」は人格・体力(腕力)・容姿・音楽的才能などどれをとっても優れていて、武士の鏡といわれてきた。源頼朝の鎌倉幕府成立時にはその才能を如何なく発揮し、大いに貢献した。
ところが頼朝逝去後、重忠公は北条氏の台頭により危険人物として襲撃の標的となっていく。重忠は虚言により呼び出され鎌倉に向かう。北条時政から命令され義時らは途中の重忠を謀叛の罪で討つべく大軍を率いる。重忠は二俣川付近に差し掛かったところ、鎌倉で息子重保が討たれ、追討の大軍が襲来するとの報を受ける。しかし体制を整えるために自分の本拠(菅谷の館)へ引き返すことなく、ここで迎え撃ち多勢に無勢で激闘は続くが壮絶な最期を遂げる。無実の讒言により正義の武将も男の厄年42歳の生涯を閉じる。
源頼朝のもと鎌倉における武家政権下では大いに手腕を発揮したが、一方では囚人扱いをされたり(伊勢国沼田御厨)、謀叛の嫌疑をかけられたり(梶原景時からとの讒言)したが、常に誠実で清廉潔白な態度を貫く。俗人がそうであるように贈位などを望まず、武勇だけではなく幅広い教養を兼ね備えた武士であった。
ここに畠山重忠公の彷徨している魂を鎮めんがために遺烈碑を建てる。

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この石碑が建っている「万騎が原」は、平安時代までは「牧が原」だったのですが、二俣川合戦において北条側が数万騎の軍勢を率いていた、という言い伝えから「万騎が原」という字が当てられるようになったのだそうです。

最寄駅は、相模鉄道本線「二俣川」駅。徒歩約10ほど。

こちらが主役(?)の遺烈碑。

旭区による案内板。

畠山地蔵尊。近くの万騎が原団地造成の折に多数の人骨が出てきて、これは畠山軍の遺骨であろうということでその供養のために地蔵を祀ったのだそう。

こちらは道標を兼ねた庚申塔。左面に「戸塚道」、右面に「大山道」と刻まれています。

MAP

横浜市旭区万騎が原

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