子之神社(川崎市多摩区菅北浦)

2022.05.19[ 神社 ]

子之神社(川崎市多摩区菅北浦)

源義経による御神体奉納の逸話が伝わる、旧小沢郷七ヶ村の総鎮守 子之神社(川崎市多摩区菅北浦)

鎌倉時代には小沢郷七ヶ村の総鎮守だったと伝わる「子之神社(川崎市多摩区菅北浦)」。

創建年代は不明ですが、源義経による御神体の逸話が伝わっており、鎌倉時代には小沢城を含めた小沢郷七ヶ村(現在の菅、坂浜、平尾、細山、金程を含む地域)の総鎮守だったと伝わっています。江戸時代には菅村の鎮守として祀られていました。

境内に掲げられている「由緒」には、以下のように記されています。

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社伝、「新編武蔵風土記稿」、往時の別当法泉寺の当社縁起によれば鎮座の年代は不明ですが菅村地主明神は大己貴神を祀り、本地は十一面観音と伝えられ、後の人が薬師第一夜叉大将の宮毘羅神(薬師如来を守護する十二神将の筆頭格で干支の「子」が割り当てられている)を習合したことにより「子神」と名づけられました。
保元の乱(一一五六年)の白河殿夜討の時、鎮西八郎為朝が兄の左馬頭源義朝に向けて放った矢の鏃を、義朝の側室、常盤御前が常に所持し、後にその子源義経に譲り与えました。
菅村の薬師仏はもと常盤御前の守護仏で、乱逆の際移転して菅村の仙谷という所へ遷座し、義経がそのお堂に従者十三人と一年間参籠し、かの矢の根(鏃)を醫王殿に納めました。後にその矢の根を仏前よりおろし、地主明神の祠へ納めて御神体としたことにより「子神」を字音の似た「根神」に改め、社殿を竹の鼻という現在の場所に築き小沢郷七か村惣郷の鎮守としました。
このときより毎年正月九日神前にて猿楽の男舞及び賭的が行われ名主二名七か村の人々が参列する永式となり現在では賭的はお的神事として行われ猿楽の男舞は菅薬師の獅子舞として受け継がれています。
元弘三年(一三三三年)新田義貞の鎌倉攻めの際、兵火により社殿を焼失、小田原北条氏家臣の佐保田政房が主君北条氏康に願い出て天文二年(一五三三年)七月北条氏康が再興
天正十八年(一五九〇年)、豊臣秀吉の小田原城攻めのとき、北国上杉勢の兵火により再度焼失、後に法泉寺住呂長辨の勧進により、小さなお堂を建立。
江戸時代前期の延宝七年(一六七九年)領主中根壱岐守正致が田畑を寄進し社殿を造営
元禄三年(一六九〇年)菅村は幕府直轄地とされたことにより多摩郡小沢郷から橘樹郡稲毛領に編入され、伊奈半十郎忠篤の治めるところとなり当社は菅村の鎮守として根ノ神社、根上明神、根之神社などと呼ばれていました。
享保十三年(一七二八年)佐保田与市他二名が願主となり本殿と拝殿が造営され現在の社殿はその後再建されたもので、本殿は江戸時代末期、拝殿は文化八年(一八一一年)に造営されました。
明治元年に神仏分離令が出された後、明治六年十二月村社に列せられ、社名を「子之神社」と定めました。
明治十三年に本殿覆屋と拝殿を改築、平成二年に本殿覆屋と拝殿を改築改修し現在に至ります。地元では古くから「ねのかみさま」とも呼ばれ、人々の崇敬を受けています。

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御祭神は、大己貴神。

現在は登戸稲荷社の兼務社となっているようです。

最寄駅は、JR南武線「稲田堤」駅。徒歩約10分ほどでしょうか。

神社入口。

鳥居に向かう道の右側にあるのは、かつての別当・法泉寺。

正面の鳥居。

参道にある御由緒板。

石段を登って右に行くと、拝殿があります。

拝殿。

マスクをした狛犬。

MAP

神奈川県川崎市多摩区菅北浦5丁目4−1

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