於満稲荷神社(中央区日本橋)

2023.01.25[ 神社 ]

於満稲荷神社(中央区日本橋)

徳川家康の側室・於満の方ゆかりの地に建立された神社 於満稲荷神社(中央区日本橋)

徳川家康の側室だった於満の方ゆかりの地に建立された「於満稲荷神社(中央区日本橋)」。

徳川家康の側室で、紀州徳川家の祖・徳川頼宣と水戸徳川家の祖・徳川頼房を産んだ於満の方(養珠院)が、物資調達のために立ち寄り町の発展に貢献したことから、地元の商人によって建立されたと伝わっています。

社殿前の案内板『於満稲荷神社縁起』には、以下のように記されています。

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此の神社の於満とは、徳川家康公の奥御前で養珠院様(於満の方 一五八〇~一六五三)といわれています。養珠院様は二人の男児に恵まれました。徳川御三家紀州家の開祖となった徳川頼宣公と、水戸家の開祖徳川頼房公の御生母です。また八代将軍徳川吉宗公や徳川光圀公(水戸光圀公)も子孫に当たります。一六五七年の「明暦の大火」で江戸城をはじめ、このあたりも記録とともに消失しました。その後復興し、寛文(一六六一~七三)の記録に、この於満稲荷神社が記されています。言い伝えでは、此の地に幕府のご休憩所があり、信心深い養珠院様御一行が神仏寄進のために日本橋界隈に物資調達にお立寄り、商業に多大な貢献をした養珠院様ゆかりの地として、商人達によって神社が建てられたとされています。またそれから百年あまり後の寛延(一七四八~五一)には於満稲荷ゆかりの「於満すし」が江戸中の名物となり、この地の賑わいが記されています。
以来約三百五十年間、この稲荷神社は関東大震災など数々の試練を乗り越え、この地の商売繁盛五穀豊穣の稲荷神社として崇められ信仰され続けています。

平成十七年、中央区により「養珠院通り」となった通り名の由来にもなりました。

平成十七年七月吉日
於満稲荷神社世話人一同

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最寄駅は、各線「東京」駅。東京駅は大きいですし、出口もいっぱい、おまけに地下通路もあるので表現が難しいところですが、間違いなく「東京駅至近の神社」のうちのひとつではあります。

隙間に鎮座している神社はこれまでもいくつも見てきましたが、、こちらの「隙間度」もなかなか。。

社殿。

御由緒板。

鳥居の扁額。

MAP

東京都中央区日本橋3丁目3−2

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