成宗弁財天社(杉並区成田東)
2024.11.24[ 神社 ]
近隣の水信仰の中心地だったと伝わる「成宗弁財天社(杉並区成田東)」。某地図アプリでは「成宗五色弁財天」と表示されます。
創建年代は定かではありませんが、成宗村が拓かれた頃(鎌倉時代ではないかと云われています)に、この場所にあった湧水池の畔に建てられたのが起源と伝わっています。江戸時代後期には「成宗富士」と呼ばれた富士塚もつくられていたそうですが、1952年(昭和27年)頃に取り壊されました。
杉並区教育委員会による案内板には、以下のように記されています。
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当社は、成宗村がつくられたのと同じ頃、水神様のご加護を祈って、湧水地(弁天池、現在は神社裏手のマンション内)のほとりに創立されたのが始まりと伝えられていますが、詳細は不明です。ご神体は、鎌倉時代に江ノ島弁財天で焚いた護摩の灰を練り固めて作ったという伝説のある、素焼きの曼荼羅像です。
近世の当社は、近在の村々の水信仰の中心地で、日照りが続くと人々は雨乞いのため、弁天社に詣で、弁天池の水を持ち帰る習慣があったといわれています。近代になっても大正初期頃までは富士登山・榛名詣・大山詣等の際には、弁天池で水ごりをして、道中の安全を願ったということです。
この弁天池は天保11(1840)年、馬橋村等が開削した新堀用水の中継地として利用されましたが、その際池を掘り上げた土で、富士講のための築山(成宗富士と呼ばれた富士塚)をつくりました。この築山は、昭和27(1952)年頃に取り壊されましたが、境内の大日如来像・惣同行の碑・浅間神社・手水鉢などは、かつての成宗富士のおもかげを伝えています。
また、鳥居前に残る石橋・水路跡は天保用水の名残で、明治13(1880)年銘の中野村・高円寺村・馬橋村三ヶ村用水記念碑(杉並区登録有形文化財)と共に貴重な文化財です。
当社は、弁天講中の人々により手厚く守られてきましたが、現在は隣接する須賀神社世話人と地域の人々により引きつがれ、維持管理されています。
令和6年3月 杉並区教育委員会
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最寄駅は、東京メトロ丸ノ内線「南阿佐ケ谷」駅。徒歩約5分ほどでしょうか。
神社入口。右側には成宗須賀神社があります。
杉並区教育委員会による案内板。
境内の様子。
鳥居の扁額。
社殿。
社殿の扁額。
こちらは、おそらく浅間神社。
こちらは、おそらく大日如来像。
MAP
東京都杉並区成田東5丁目29−4