江ヶ崎八幡神社
2020.10.29[ 神社 ]
16世紀末に社殿が建立されたと伝わる、旧江ヶ崎村の鎮守「江ヶ崎八幡神社」。
1532年に、荒川伊豆守景親(荒川長実)が創建し、後に荒川長兵衛(荒川重世)が社殿を建立したと伝わっています。江戸時代には江ヶ崎村の鎮守として祀られていました。昭和になり、新鶴見操車場ができるのに伴い、現在地に遷座しました。
境内に掲げられている「江ヶ崎八幡神社御由緒」には、以下のように記されています。
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当社は江戸時代から江ヶ崎村の鎮守とされ、祭神は応神天皇です。
「神社明細帳」によれば、天文元年(一五三二)に荒川伊豆守景親が武運長久祈願のため創建したと記しておりますが、実際には天正十九年(一五九二)に徳川家康の命により荒川長兵衛が江ヶ崎村を検地し、石高百七十四石九斗の領主となってから社殿が整ったと考えられます。また元禄十二年(一六九九)には、「八幡宮」の神号額が作られており、この頃には当社が神額を掲げる社殿を有していたことが分かります。
江戸時代後期に編さんされた「新編武蔵風土記稿」にて、当時の江ヶ崎村は「水田多く陸田少なし」民家は二十八軒、稲毛領(のちの川崎領)に属しており、社殿は「東通り」(旧新鶴見操車場内)にあり、山道の左右に老松二株、境内にも古杉や老松が多く神域頗る荘厳なり、「八幡社は、五寸許りの正観音座像を祀る村の鎮守で、伊勢・稲荷を合祀し、寿徳寺持ち」と伝えています。神道と仏教が習合して信仰された江戸時代までは、村内の寿徳寺(一六一五年創建)が、別当(神社の所有者・管理者)として当社の祭祀を行いました。
明治六年(一八七三)神仏分離の折に村社となり、明治四十二年(一九〇九)に寛政年間より村内に祀られていた石宮第六天社を合祀しました。
昭和三年(一九二八)境内地が新鶴見操車場敷設用地となった事に伴い、当社は十一軒の民家とともに現在地に移転しました。本殿の垂木は巧みな技術を要する見事な扇型です。
昭和三十四年(一九五九)唐破風の屋根を修理し、昭和五十六年(一九八一)には、瓦屋根を全面銅板葺きにしました。またこの時「天明六年建立、石工飯島吉六」と刻してあった石鳥居も、現在の鳥居に建て替えられました。
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御祭神は、応神天皇。
現在は潮田神社の兼務社となっているようです。
最寄駅は、JR南武線「矢向」駅、もしくは「尻手」駅。
正面の鳥居。
拝殿。
拝殿前の狛犬。
このエリア(加瀬〜江ヶ崎)の神社には、右大臣・左大臣像があるところが多いです。
境内社。
境内社の第六天社。
境内は、現在は公園になっています。