旧数寄屋橋門跡

2019.11.15[ 史跡・公園等 ]

旧数寄屋橋門跡

伊達正宗によって築かれた「数寄屋橋門」があった場所 旧数寄屋橋門跡

江戸城三十六見附のひとつ「旧数寄屋橋門跡」。

1629年(寛永6年)に、陸奥国仙台藩の藩主・伊達正宗によって造られました。当初は芝口門と呼ばれていましたが、朝鮮通信使の来日に備え新たに「芝口御門」が造られることになり、こちらは数寄屋橋門と呼ばれるようになりました。

現在は遺構と呼ばれるようなものは何も残っていませんが、地図上で「旧数寄屋橋門跡」と書かれている場所には、『千代田区町名由来板 有楽町』という案内板があります。そこには、有楽町の由来について以下のように記されています。

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有楽町
「有楽町」の名前は、戦国時代に活躍した武将、織田信長の弟、織田有楽斎(長益)に由来します。茶人としても名をはせた有楽斎は関ヶ原の戦いのあと、徳川家康に属し、数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領しました。その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられたのです。その「数寄屋橋御門」の名前は、外堀を渡ると数寄屋町に通じることから生まれました。江戸時代、大岡越前による、いわゆる「大岡政談」で有名な南町奉行所がったのもこのあたりです。

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数寄屋橋御門は明治維新後に撤去されますが、外堀が埋められた1958年(昭和33年)までここには数寄屋橋が架けられていました。有楽町マリオンの反対側にある「数寄屋橋の碑」がその名残をとどめています。

最寄駅は、JR山手線「有楽町」駅。

町名由来板に掲載されている、江戸末期の周辺図。

駅前の横断歩道脇にある、明治初期の数寄屋橋御門の写真(左)と、江戸城を中心とした古地図のプレート。

有楽町マリオン。数寄屋橋御門は、この写真右手のあたりにあったよう。

数寄屋橋の碑。この記念碑がある一帯は現在数寄屋橋公園として整備されています。

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