長尾砦跡(横浜市栄区長尾台町)

2023.11.05[ 史跡・公園等 ]

玉縄城の出城として築かれた砦があったとされる場所 長尾砦跡(横浜市栄区長尾台町)

後北条氏によって玉縄城の出城として築かれた「長尾砦跡(横浜市栄区長尾台町)」。

砦跡、といっても、現在は眼に見えるところに何かが残っているわけではありません。登り坂の途中に案内板があるのみ。

その案内板(栄区役所による案内板)には、以下のように記されています。

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長尾砦趾は戦国時代に小田原北条氏が築いた玉縄城の出城、長尾砦の趾といわれる。しかし長尾の名は古く鎌倉以前にまでさかのぼる。
この地に鎌倉武士長尾氏の館があったといい、昭和五十五年、農地整備に伴い横浜市埋蔵文化財調査委員会の発掘調査が行われ縄文時代から中世にかけての遺物が発見されているほか、現在まで、この付近から五輪塔、板碑、陶磁器等が出土している。
長尾氏は平安時代の武将で、源義家に従って後三年の役で活躍した鎌倉武士の祖ともいえる鎌倉権五郎景政の子孫がこの地に住んで長尾次郎と名のったと伝え、これが鎌倉長尾氏の始祖だという。この地の御霊神社(別名権五郎神社、本社は鎌倉坂ノ下)は景政を祭神とするから、長尾氏の祀った祖先神である。次郎の子孫という長尾定景は、治承四年(1180年)八月の石橋山の合戦で源頼朝を護るため俣野五郎景久とくみ討ちをしていた佐那田与一義忠を討ち取った人物だと源平盛衰記にある。また、建保七年(1219年)一月、三代将軍源実朝を殺害した別当公暁を討った人でもある。その子景茂は宝治元年(1247年)六月の三浦泰村の乱(宝治の乱)で泰村方につき、泰村が敗れたので北条時頼軍に襲われ、景茂父子は源頼朝が建てたという法華堂で自刃した。ここに鎌倉長尾氏は滅亡したのだが、室町時代にその一族、長尾景仲が活躍したし、戦国時代に長尾顕方等の一族の屋敷があったというから、その後も一族の子孫たちがこの旧長尾郷一帯に定着していたと考えられる。
戦国大名で有名な上杉謙信も、越後国守護代の長尾氏で、長尾景虎といい、後に関東管領上杉氏の末裔を迎えてその養子となり上杉氏を名乗ったのだから、その先は鎌倉長尾氏である。その時代、小田原北条氏が関東一円に勢力を拡大する中で、長尾顕方等の一族もその勢力下に組み込まれ、玉縄城主北条綱成の領地とされ、長尾氏の屋敷のあった長尾台に長尾砦が築かれて、柏尾川流域一帯を掌握する根拠地となり、三浦・武蔵方面への支えとしたのである。

平成4年3月
栄区役所

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玉縄城もまた後北条氏によって築かれた城。しかし江戸時代初期の1619年(元和5年)に廃城となりました。

最寄駅は、JR各線「大船」駅。

柏尾川沿いの低地から少し登ったところにあります。緩やかな上り坂を進みます。

竹林の先に看板が見えます。

案内板。

MAP

神奈川県横浜市栄区長尾台町349−3

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