橋本左内の墓旧套堂(荒川区南千住)
2025.06.27[ 史跡・公園等 ]
安政の大獄で処刑された福井藩士・橋本左内の墓を守るために造られた「橋本左内の墓旧套堂(荒川区南千住)」。
橋本左内は越前国福井藩に生まれ、徳川十四代将軍をめぐる将軍継嗣問題において福井藩主・松平春嶽の側近として奔走しましたが、後に安政の大獄の際に捕えられ、伝馬町牢屋敷にて斬首されました。享年25歳。もし生きて明治維新を迎えていれば、間違いなく活躍していただろうと言われる人物でした。
処刑後、松平春嶽の命を受けて福井藩は遺体を回収し埋葬、小塚原回向院内に墓を造りました。この墓を風化から守り、また遺徳を広めるために造られたのがこの套堂です。
その後回向院の境内整備に伴い套堂は区に寄贈され、そして2009年(平成21年)に荒川ふるさと文化館前に復元されました。
荒川区教育委員会による案内板『荒川区登録有形文化財(歴史資料)橋本左内の墓旧套堂』には、以下のように記されています。
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この套堂は、昭和八年(一九三三)に橋本左内の墓(区登録有形文化財(歴史資料>)を保護する(納める、覆う)ために造られた建造物です。大正十二年(一九二三)の関東大震災後に耐震性と不燃性の観点から注目されるようになった鉄筋コンクリート造で、規模は方一間(柱間一・九四メートル)、宝形造の屋根、軒裏および柱・梁等の軸部には、表面に人造擬石洗出・研出仕上げを施しており、伝統的な建築の意匠と近代的工法との折衷を図った近代仏教建築といえます。もとは回向院(南千住五丁目)境内入口にありましたが、平成十八年、套堂のみ区に寄贈され、同二十一年、ここに復元されました。
当時、堂の施主となったのは、橋本左内を追慕し、遺徳を広く発揚することを目的として、明治三十五年(一九〇二)に設立された景岳会で、事務所は福井県出身の学生を育英するため設けられた輔仁会内に置かれました。設計には、同会会員で建築家でもあった原田正があたり、歴史学者黒板勝美(古社寺保存会委員・東京帝国大学教授)に助言を求め、日本建築史を体系化した建築家伊東忠太(東京帝国大学教授・史蹟名勝天然記念物保存協会評議員)の監修を受けています。また、正面に据え付けられた陶製の橋本家の家紋のデザインは、福井県出身で、日本の陶影のさきがけとして知られる溜田一雅(東京美術学校教授)によるものです。当代一流の学者の知識・技術・感性が結集した近代の貴重な文化財といえます。
平成二十一年三月二十六日
荒川区教育委員会
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最寄駅は、各線「南千住」駅。徒歩約10分ほどでしょうか。
正面から。
案内板。
堂内にあるのは、橋本左内の坐像。
MAP
東京都荒川区南千住6丁目60