義民原嶋源右衛門処刑執行の地
2020.12.07[ 史跡・公園等 ]
江戸時代の新田開発と領地争いの悲しい歴史を今に伝える「義民原嶋源右衛門処刑執行の地」。
武蔵国多摩郡成瀬村・東光寺集落の名主・原嶋源右衛門一家が、隣接する都筑郡長津田村との境界紛争の末処刑された場所に、一家を供養するためにつくられた供養塔(お地蔵様?)が今も残っています。
『名主・原嶋源右衛門の死刑執行の場所』と書かれた案内板には、以下のように記されています。
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名主・原嶋源右衛門の死刑執行の場所
享保元年(1716)10月15日、通称「がけ山」と呼ばれるこの場所で、村民の必死の嘆願もかなわず名主・原島源右衛門は15人ほどの役人の手により打ち首、一家断絶の厳しい処刑が行われた。今から293年前の出来事である。
処刑役人たちは居並ぶ村民たちに「かたずけろ!」と命令し引き上げたが、総出の村民は寝もやらず、一家の屍を焼き葬った。村民たちは3日間に渡り火を焚き続け、号泣と埃で顔の表裏も定かでなくなる姿で、いつまでも手を合わせ、一身に罪を背負った原嶋源右衛門並びに一家の成仏を祈り念仏を唱え続けたのであった。その跡地のこの供養塔を建立、台座に氏名が刻されている。筆は東雲寺住職八世「考山」である。
(なを、慰霊碑は元・原嶋家の屋敷で、少し離れた南成瀬8丁目5番地にある)
処刑に至る事件と元禄、享保の時代背景
各藩の江戸屋敷の賄い、参勤交代で消費する膨大な財政は江戸に元禄バブルを生み寒村を一気に100万人の都市に変身させ、貨幣経済、商品経済の急激な発展は各所に大きな「ひずみ」を抱え込んだのである。金銀貸借をめぐる紛争、経済事犯の手形為替の不渡り、売掛金の未払い、担保の二重抵当、奉公人の欠落、仲間との商圏の争い、禁止されている秤の私造、通貨の偽造や治安の悪化が著しくなっていた。
当然のこと、農村とはいえ江戸から約10里(40キロ)の成瀬村にも商品経済が浸透し有利な商品作物を栽培したり、作物の肥料も落葉や稲藁だけでなく「金肥」と言われる干し鰯、大豆の絞め糟などを効果的に使用して収穫量を倍増させる積極経営に変化し経営面積の拡大も大きな課題になっていた。
また、徳川幕府も経済の所謂バブル崩壊から年貢の取り立ても厳しく、経営面積の拡大の要求も強くなり、広範な新田開発の奨励は新たなる問題を提起してきた。土地の境界問題、入会地(一種の共有地で燃料の薪炭、牛馬の牧草地)の用益権、水田用水の権益、水田開発の是非、開発地の配分と村落への帰属など局地問題にとどまらず他領支配地まで及ぶ複雑な係争も各地で数多く発生するようになり、幕府も頭を痛める新しい事象として捉え、鎮圧に躍起となり厳しく対処した。この種の紛争処理にのみ摘要する「論所」と呼ばれる別形態の紛争処理機関を置くほど多く事件はあったのである。
今でも各地に紛争や処刑の記録が伝えられているように、大げさに言えば日本中にこの種の伝承や物語があるようだ。
原嶋源右衛門もこれらの時代背景の中で、土地をめぐる紛争に手を焼いた奉行所の極めて政治的な騒動鎮圧の見せしめを主眼とした処分、つまり「一罰百戒」効果を狙って極刑を課すことによる紛争鎮圧の道具に使われたものと推察できる。
処刑の原因となった入会地「葦沼」の新田開発
台地の先に葦が群生する入会地があり、沼の底から常に湧水が湧く湿地帯が広がりそれが成瀬村と長津田村にまたがっていた、無価値に等しい土地であったが、成瀬村の名主・原嶋の努力で暗渠排水などの新しい技術を取り入れた新田開発が成瀬・東光寺部落総員の参加で行われ、立派な水田が出来上がり、不毛な地が一躍金を生み出す土地に変身した。そうなると垂涎の的、隣接の長津田村から境界問題が提起されてきた。協議を重ね紛争解決のため開発新田の一部を長津田村に渡す事で問題が解決、定かでなかった境界も合意の上で画定したが、これに奉行所が横槍を入れ『公儀をたぶらかした』として首謀者の名主・原嶋源右衛門を見せしめの罪人に仕立て上げたものである。
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農民の命は「お上の気分次第」でどうにでもできるという、悲しいお話です。もちろん「お上」とは「侍」のこと。最近では「侍ジャパン」とか「サムライ・ブルー」なんていう言葉が当たり前に使われていますが、こういう話を知れば知るほど「侍」に憧憬を抱くことの滑稽さを感じてしまいます。。
最寄駅は、東急田園都市線・JR横浜線「長津田」駅。
西側から見た「がけ山」。
昼間でも、この通りとても暗いです。
供養塔は、石段を上がって右手にあります。
こちらは日露戦争・旅順攻略戦において戦死した、地元出身の兵士(中里好治氏)を弔うためにつくられた「忠魂碑」。碑のそばにある案内板には、この戦いの壮絶さと司令部の無能さが綴られています。石段を上がった正面にあるのがこちらです。