近藤勇生家跡(調布市野水)
2025.06.05[ 史跡・公園等 ]
新撰組局長・近藤勇の生まれ育った地に残る「近藤勇生家跡(調布市野水)」。
近藤勇は、1834年(天保5年)に多摩郡上石原村の富農・宮川久次郎の三男として生まれ、その後15歳の時に天然理心流近藤周助に入門、周助の養子となり近藤勇と名乗るようになりました。ここは、宮川家の跡地です。
調布市教育委員会による案内板『市指定史跡 近藤勇生家跡』には、以下のように記されています。
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幕末の動乱期、新選組局長として活躍した近藤勇は、天保五年(一八三四)、武蔵国多摩郡上石原村辻(現調布市野水一丁目)の富農、宮川久次郎の三男(幼名勝五郎)として生まれました。
宮川家は、甲州街道上石原宿の北方約二・四キロメートル、人見街道と小金井道(現多磨町通り)が交差するところ(辻)にありました。主屋のほかに蔵屋敷や文庫蔵、納屋などが建ち並び、庭内には築山が築かれ、屋敷林としてケヤキやシイ・カシなどが植えられていました。
勇は、嘉永二年(一八四九)に満十五歳で天然理心流三代近藤周助の養子となり、江戸牛込甲良屋敷(現新宿区市谷柳町)にある道場「試衛場(試衛館)」に移るまで、この屋敷で育ちました。勇の父、久次郎は、屋敷内の納屋を剣術道場とし、近藤周助を招いて稽古を行っていましたが、勇が周助の養子となった後は、この宮川家の道場が調布・三鷹地域の出稽古先として大いに賑わったと伝えられています。
屋敷は、昭和十八年(一九四三)、陸軍が全面使用した調布飛行場から離陸する戦闘機の妨げになるとの理由で取り壊されました。現在は、勇が生まれた時に産湯につかったと伝えられる井戸とその周り約一三三平方メートルを残すだけとなっています。
井戸跡の東側には、昭和の初め頃に東京一円の軍人たちによって建てられた近藤神社があり、人見街道を挟んだ向かいには天然理心流道場「撥雲館」があります。撥雲館は、勇の婿養子、勇五郎が明治九年(一八七六)に開いた道場で、その名は山岡鉄舟が命名し、看板に揮毫したと伝えられています。また、生家跡から人見街道沿いに約二七〇メートル東にある龍源寺(三鷹市大沢六丁目)には、近藤勇の墓(東京都指定旧跡)があります。
令和七年三月二八目
調布市教育委員会
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最寄駅は、西武多摩川線「多磨」駅。
跡地、というだけあって?特に何もないようにみえますが。。
案内板にある、近藤勇誕生時に産湯に使ったと伝わる井戸。
『市指定史跡 近藤勇生家跡』案内板。
東側にある「近藤神社」。
MAP
東京都調布市野水1丁目6−25